醒めない夢のように


 「デートしたいなぁ」

 ぽつりと呟かれたその台詞に、江藤は顔を上げた。向かい側に座っている冴木は、片手で頬杖をついたまま、じっとこちらを見つめている。一瞬聞き流そうかとも思ったが、その目線は明らかに、江藤の回答を求めていた。
「ねえ先生。どっか遊びに行こうよ」
 微笑みながらの駄目押しをされ、江藤は仕方なく採点の手を止める。にっこりと笑いかけられて気持ちが揺れなかったと言えば嘘になるが、江藤は小さく息を吐いて、首を横に振った。
「……ダメだ」
 冴木は微かに目を見開いて、ゆっくりと瞬きをした。頬杖をついていた腕を外し、江藤の顔を覗き込むように身を乗り出す。
「何で?先生方はこれから忙しいもんなの?」
「いや、そうじゃなくて…」
 江藤はうろうろと視線をさ迷わせ、困ったように眉を寄せた。
「一緒に出掛けるのはマズイだろ、やっぱり」
 まっすぐな視線が痛くて、江藤は言いながらそろりと視線を外した。
 定期テスト最終日。
 文字通り定期的にやって来る重圧からようやく解放された生徒達は、皆あっという間に教室を後にしており、既に校内はしんと静まり返っている。下の職員室にはまだ殆どの教員が残っているはずだが、ここ三階にいるのはもしかすると、江藤と冴木だけなのかもしれない。二人は化学準備室の真ん中にある少し大きな机に、向かい合わせになる形で座っていた。
 仕事が残っている江藤はともかく、こんな日に冴木がわざわざ校内に留まっているのは、勿論出来たばかりの恋人の顔を見ていたいが為に他ならない。それは江藤も同じで、だからこそ二年生は後回しにし、冴木とは関係のない学年の採点から始めていたのだが、結局そちらもろくに進んではいなかった。集中力が足りないせいで、結局何度も答を確認するハメに陥っているからである。
「同じ学校の生徒の行動範囲って、割と似てたりするだろ」
 変わらずまっすぐにこちらを見ている冴木の視線に、今のところ非難が込められている様子はない。けれど江藤は、同じように相手の目を見返すことが出来なかった。
 自分だって断るのは心苦しいのだ。
 しかし現実問題、二人とも車を持っていない以上、移動手段は電車かバスを使うより他ならないし、そうなると同じ路線を使っている他の生徒達と遭遇してしまう可能性もかなり高くなってしまう。
「人目気にして、落ち着かないだろうし」
「……そりゃそうかもしれないけど、校内だって落ち着かないことに変わりはないでしょ」
 冴木は微かに唇を尖らせて、拗ねたように眉を寄せた。
「先生、まさか外では会ってくれないつもり?」
「そ、そんなこと言ってないだろ。だからさ」
 慌てて否定してから、江藤は再び視線をさ迷わせる。
「近場は色々マズイかと思うし、でも急に遠出も難しいから」
 つい言い訳めいた台詞を付け足してしまったが、勿論それで仄かに染まった頬をごまかすことなど出来ない。
「その……」
 江藤は開き直ったように顔を上げ、それでもおずおずと口を開いた。
「……家、来ないか?」
 冴木は目を丸くして、江藤の顔を見た。






 江藤と冴木が所謂恋人同士というものになってから、既に数週間が経っていた。定期テストの準備で互いにバタバタしていた為、放課後の逢瀬も以前より慌ただしくなっていたような状況である。それ故江藤も、テストが終われば二人で過ごす時間を作りたいと思っていたのは事実であり、本来であれば冴木の言葉にも二つ返事でOKを出したいところであった。
 しかし二人は一応、教師と生徒という間柄である。しかも、担任でもなく、部活の顧問でもない、中途半端な間柄。一応冴木のクラスの副担任を務めてはいるのだが、その程度のことを主張するのはかえって不自然な気がして何だか憚られる。
 一緒に出掛けているところを見られてしまった場合、一体どういった言い訳を用意すれば自然なのか。
 今の所江藤には、不測の事態を上手くごまかせる自信が全く無かった。
「まあ、正直あんまり心配する必要もないような気がするけど」
「まだ言うか」
 僅かに眉を寄せて、江藤は肩越しに振り向いた。
 テスト明けから三日後。うららかな土曜日の午後である。
 些かきょとんとしながらも江藤の申し出を受けた冴木は、約束通り彼の家に遊びに来ていた。最寄りの駅まで迎えに出たが、幸い知り合いに会うこともなく、歩いて十分程のところにあるアパートに無事到着している。だが同じ駅を利用している生徒も数人知っているし、用心するのに越したことはないと江藤は思っていたのだが、相手の私服姿を初めて目にした冴木の方は、少々異なる見解を持ったらしい。
 曰く。
「ぱっと見、先生には見えないから大丈夫」
 それは江藤だと判らないということなのか、それとも教師には見えないということなのか。
 悩みつつ自分の着ていたTシャツを見下ろしたのだが、にこやかに「どっちも」と返されて、些か腑に落ちないものを感じる江藤であった。
「ほら」
「あ、ありがと」
 小さなテーブルの脇に座っていた冴木にマグカップを手渡すと、江藤は自分も向い側に腰を下ろした。両手でカップを持ったまま、テーブルの向こうの冴木をじっと見る。
「…なに?」
差し出されたコーヒーに口を付けようとしていた冴木は、その視線に気付いて顔を上げた。
「いや…何か俺んちにお前がいるというこの状況が、不思議な感じがしてさ」
 しみじみと呟く江藤に、冴木は小さく吹き出した。
「呼んでくれたのは先生じゃん」
「いや、まあそうなんだけど…」
 語尾を濁して、笑う冴木を見やる。こちらも初めて目にする私服姿だったのだが、極シンプルな配色だった為、特別な感想は出て来なかった。大人びて見えるのだろうかとか、逆に子供っぽく感じたりするだろうかとか、実は色々想像していたのだが、何を着ても冴木は冴木ということらしい。尤も、「今日はおとなしめにした」と言っていたから、次に会う時はまた印象が違うかもしれない。
「あ、なあ、ビデオ持って来てくれた?」
「うん、持っては来たけど…」
 冴木は呟きながら、横に置いていた鞄を引き寄せた。
「ホントに見んの?言っとくけど、子供向けのやつだよ?」
「分かってるってば」
 急かすように差し出された江藤の掌の上に、冴木は鞄から取り出したDVDディスクを乗せた。うきうきとプレーヤーの準備をする江藤の背中を見て、密かに肩を竦める。
 ディスクの中身は、数ヶ月前、仲間内で行った公演を撮影したものだった。
 冴木は以前割と名の知れたマジシャンにマジックを教わっていたことがあり、その伝手でたまにステージの手伝いなどに声を掛けて貰うことがあった。さほど広い世界ではないので、そうしているうちに顔見知りも増え、時々同好の士と一緒に自らが公演を行うこともある。しかし鑑賞用娯楽としてはあまりメジャーではなく、尚且つ特別な有名人が出演する訳でもないステージである。結果ボランティアに近い形となり、依頼を受けて老人ホームへ出張したり、公民館などで親子連れ向けに演じることの方が多い。
 そう説明はしたのだが、「見てみたい」と江藤にねだられ、比較的最近行ったステージを録画したものを持参していた。今は主催側の誰かしらビデオを回しているものだから、記念や記録というよりは自分の姿を客観的に見る為に、冴木も大抵の場合はコピーを頼んでいる。しかし子供向けのステージ用マジックは、基本的に見やすく解りやすいを基準で選んでいる為、江藤が見ても楽しめるのか、冴木にはいまひとつ自信が無かったのだ。
 あまり気の進まない風の冴木とは逆に、江藤の方はやけに嬉しそうである。
「大丈夫だって。変な格好してても、誰にもバラしたりしないから」
 にこにこしている彼には何か誤解があるようなので、冴木は念の為先に断っておくことにする。
「一応言っとくけど、俺はでかい蝶ネクタイも、スパンコールジャケットも、着用してないからね」
「ええー」
「…何その不満そうな顔」
 眉を寄せた江藤に、呆れるより先に思わず笑い出してしまう冴木だった。そんな相手に少々唇を尖らせていた江藤だったが、ふと疑問が浮かぶ。
「じゃあ何で渋ってるんだ?」
 何か失敗でもしていたのならわざわざそれを選んで持っては来ないだろうし、見られて恥ずかしがるタイプではないと思っていたのだが。
「んー…」
 冴木は苦笑を浮かべながら、耳の後ろを掻いた。
「ちょっと、内容的に、楽しんで貰えるか自信がないんだよな」
 その顔を見て、子供向けの公演だと繰り返していたことに合点がいった。江藤としてはむしろ客層に合わせて用意出来る点に感心するくらいで、気に病むようなことではないと思うのだが、冴木は随分と気を使ってくれているようだ。
 江藤は微笑んで、相手を見上げる。
「冴木が演ってるってだけで、俺には充分なんだけどな」
「え?」
 問い返されて、一瞬素直に全部伝えるべきなのか迷ったが、まあ、誰が聞いてるわけでなし――と、江藤はそのまま続けた。
「いや、内容を楽しみたいのも勿論だけど、その…見たことないとこ見てみたかったというか…さ」
 続けてはみたものの、何だか気恥ずかしくなってきて、徐々に声が小さくなる。目線を逸らしながら、江藤はぼそぼそと呟いた。
「色んな顔知りたいな、と思って。だから、嫌とかじゃないなら…」
 ふいに相手の手が肩に乗り、江藤は言葉を切った。顔を上げると、冴木の瞳が触れそうなほどの間近にある。
 驚いた江藤が動きを止めた隙に、冴木は掠め取るようにして彼の唇を奪った。目を閉じるのすら間に合わないくらい、あっという間である。すぐに離れてしまった唇は、何だか楽しそうに両端が上がっており、それを見た江藤は数瞬遅れて頬を赤くした。
「な、何だよ急に」
「ん、ちょっとしたくなった」
 冴木はにこにこしながら江藤の腕を引き、些か強引に床の上に座らせた。自分も一緒に腰を下ろし、背後から覆い被さるようにして、江藤の体を抱き締める。両側から冴木の腕と足に挟まれる格好になり、江藤はますます顔を赤らめた。
「こ、こら、冴木」
「まあまあ」
 肩越しに後ろを振り向くと、すぐそばに冴木の顔がある。黒い瞳に自分が映り込んでいるのが見えて、江藤の胸がとくんと音と立てた。
「せっかく二人きりなんだから、遠慮なくイチャイチャしよ?」
 そう微笑まれて、何も言えなくなってしまう。そもそもデートのつもりで家に呼んだのは事実だし、キスひとつするのにも気を張っていた校内とは違って、誰に邪魔される心配もない。
 それになにより、背中から伝わる冴木の体温は、正直心地が好かった。
 それでも口では「しょうがないな」などと言いながら、江藤は脇に転がっていたリモコンを手に取った。軽く後ろに寄り掛かると、江藤の体を抱き留めていた冴木の腕が、少し緩む。しかし、緩んだだけで、巻き付いた相手の腕が離れることはなかった。
 顔が見えないような体勢で良かったと、江藤は思う。赤くなっているだけならともかく、だらしなくにやけているところを見られたりしては、流石に体裁が悪い。
 緩む口元に懸命に力を入れながら、江藤はテレビのリモコンを押した。





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