楽園の扉
4




 

 リクエストされていた烏龍茶を手渡すと、和泉は嬉しそうにそれを受け取り、いつものように弁当を広げ始めた。ちらりと覗くと、成程本日のおかずのメインは酢豚らしい。和泉の母親はマメな人らしく、彼が持参してくる弁当は、なかなかバリエーションに富んでいる。
 藤崎は床に腰を下ろし、コロッケパンに巻かれたラップを剥きながら、大きく開かれた窓に目をやった。先に来ていた和泉がご丁寧にも端から端まで開けて歩いたようで、教室の空気は既に新鮮なものと入れ替えられている。その辺りは和泉本人も割とマメで、時々掃除などもしていたらしい。尤も半ば放置されている場所なので、快適に過ごす為には自分達で何とかするしかないのも事実なのだが。
「あのさー、さっき仁科に会ったじゃん」
 その言葉に横を振り向くと、和泉は箸を動かしながら続けた。
「仲良いの?」
 問われて返答に詰まる。
 いいと言ってしまって良いのか、藤崎はよく判らなかった。話し掛けてくるのは専ら仁科の方だが、彼には友人が多いし、自分より親しくしている相手もたくさんいるだろう。
 しかしこういう質問には結局、主観による印象を述べるしかない。
「…まあ、話す方かな」
 先程仁科の方にも似たようなことを聞かれたばかりである。答え難い問いには曖昧に逃げを打つことが多い藤崎だったが、和泉が相手の場合はそういう訳にはいかない。言葉を濁すことが、彼を不安にさせることを知っているからだ。自分の言動が誰かに影響を与える、そのことが面倒で人付き合いを避けてきたはずなのに。
 単純に、沈んだ表情の和泉を見たくなかった。
 しかし藤崎の返答に和泉は箸を止め、くすんだ色の床を見つめながら、ぽつりと返した。
「仁科は、平気なんだ」
「…え?」
「いや、えーと、普通の友達付き合いっていうか…」
 出来てんじゃん、と、和泉は目線を逸らしたまま呟く。
 僅かに尖った唇が拗ねたようにも見えて、藤崎は少々困惑した。
 もしかしてこれは、嫉妬、なのだろうか。
 だが藤崎から見れば、同じ委員会に所属しているというだけの間柄の相手でも、ごく普通に、何の気負いもなく話すことが出来る和泉の方がかなり凄いと思うのだが。
 尤も和泉の場合は、相手とごく普通以上の付き合いになろうとした時に色々問題が生じてくるのであり、藤崎の場合と比べるのは難しい。それにお互い、相手のようになりたいと思っている訳ではない。
 しかしどちらにせよそれは不快なものではなく、むしろ何だか可愛らしい感情に思えた。そんな風に感じる自分への違和感は隅の方へ封じ込めて、藤崎は徐に口を開く。
「まあ、ずっとクラス一緒だったし。あいつ素直で壁がないから、付き合いやすいのかもな」
 その言葉に、和泉は床を見つめたまま小さく頷いた。
「そだな。そんな感じがする」
 珍しくあまり表情の動かない和泉に、藤崎は微かに首を傾けた。
「お前も基本はそうだろ」
「――え?」
 目を見開き、不思議そうな顔で振り向いた和泉に、藤崎は続ける。
「直進し過ぎる部分はあるのかもしれないけどさ。お前自身に壁はないだろ」
 和泉の場合、相手の壁の位置を不器用に探っているだけで、当人には遮るものは無いように思える。藤崎がそう感じるくらいなのだから、彼の周りにいる他の者達にもすぐ判るはずだ。むしろ素直に行動した方が上手くいく気もするのだが、和泉は和泉なりに考え、同じ轍を踏まないよう努力する道を選んだのだろうから、それを否定することは出来ない。
 それに。
 彼の周りがそのことに気付いてしまうのは、何だか勿体ない気がした。
「………」
 そこまで考えて、藤崎は軽く頭を振った。どうも、らしくない感情に囚われているようだ。しかも、恐らく驚いているのだろう、こちらを見ている和泉の目も口もぽかんと開かれており、自分がいかに恥ずかしい台詞を吐いてしまったのか、改めて認識させられているような気になる。
 藤崎は羞恥に染まった頬を隠すように、目を逸らした。
「…喋りすぎた」
 ぼそりと呟いた藤崎は口元を掌で覆っていたが、今更そんなことをしても仕方が無い。むしろ大きな背を丸めたその格好が妙に可愛らしいシルエットを作っていて、和泉は思わず笑いを漏らした。
「俺に比べれば、全然足りないくらいじゃん?」
 答えられない藤崎に構わず、和泉は続ける。
「でも嬉しい」
 えへへ、と笑って、和泉は再び箸を動かし始めた。
 和泉の目には、藤崎と仁科はごく普通の友人同士に見えた。他人との係わりを避けている藤崎とも、自然な形で付き合える仁科を羨ましく思ったのも事実だし、それ以上に、そんな風に付き合える――受け入れてくれる友人がいる藤崎に、嫉妬に似た感情が湧き上がったことも否定出来ない。
 しかし、決して得意ではないであろう「言葉に出す」という行為を、自分の為にしてくれる藤崎を見て、和泉はふと気が付いたのだ。自分にも、こんな風に理解しようとしてくれている人が、いるのだということに。
 藤崎はあまり喋らない方だし、感情の起伏も少ないように見える。今思えば、初対面の時の怒り顔は、ある意味貴重だ。しかもその後わざわざ謝りにくる律儀な面もあったりして、本人は否定するが、基本的に人がいいのだろう。結局は和泉に付き合っているのがいい証拠だ。
 けれど時々、もしかして自分が無理強いしているのではないかと不安にかられることが、和泉にはあった。
 誰かと一緒にいる方が落ち着く和泉はともかく、そうではないと自ら言っていた藤崎が、積極的にここに通わなければならない理由はない。いや、理由と言えば一応、「頂き物のおつりを返す」というのが本来の訪問目的であったはずなのだが、それも今では単なる飲み物交換と化しているのが現状だ。
 自分が何も返さなかったら、藤崎は貸しを返し終えたのだと理解して、もうここに現れなくなるのではないか。
 そう思うことも何度かあったが、こんな風に、暖かさを含んだ言葉を聞くと、びくびくするのが逆に失礼な気もしてくる。上手く距離が測れない自分を、不器用ながらも労わってくれる藤崎の存在に和泉は救われていたが、だからこそ相手の負担になるようなことはしたくないと思っていた。
 今日は藤崎の方が先に食事を終えている。彼はしばらくぼんやりと窓の外に目をやっていたが、和泉が弁当箱を仕舞い終えた頃には、ごろりと床に寝転がっていた。見れば、瞳も閉じられている。昼寝でもするつもりなのかもしれない。
「………」
 木漏れ日が散る白いシャツを横から眺めていた和泉は、何となく自分も隣りに寝転がった。仰向けの彼とは逆にうつ伏せになって、頬杖をつく。体が少し斜めになっていたので、和泉はちょうど藤崎の胸の辺りを覗き込む形になった。尤も平行に並んだところで、和泉の頭はせいぜい彼の肩辺りに届く程度であろう。コンプレックスを感じない訳ではないが、今後の成長をまだ諦めてもいない和泉は、相手の顔を見上げることに特に抵抗はない。
 首が痛くなるのはちょっと困るけど、などと考えながら少し視線をずらすと、床に投げ出された相手の腕が目に入ってきた。
 人間関係の煩わしさからであろうが、部活動には入っていないと言っていたその腕は、体格に相応しい長さと逞しさを持っていた。小柄な和泉からすればつくづく勿体ないと思うのだが、本人に活かす気がないのだから仕方が無いし、無理強いするようなことでもないのは判っている。
 しかしふと興味が沸いて、和泉はそちらへ片手を伸ばした。小さなボールを握るような形に丸まっていた藤崎の掌を、軽く掴んで開かせる。
「……何してんの」
 横のほうから声が聞こえた。目を閉じていただけで、寝ていた訳ではないらしい。
 仰向けになったまま肩越しに視線を投げ掛けてきた藤崎を、頬杖をついていた和泉が僅かに見下ろす形になる。微妙な角度が新鮮だ。
「いや、手もデカいなって思って。比べてんの」
 そう答えて、開いた掌に自分の手を重ねようとした和泉だが、ちょうど手の向きが反対になっている為、上手くいかない。もそもそと手首の辺りを弄っていると、ふいに藤崎が小さく笑った。
「くすぐってぇっつの」
 一瞬。
 和泉は自分の呼吸が止まるのを感じた。
 藤崎の笑顔を見るのは、初めてだったのだ。
 柔和に細められた瞳で見返されて、急に鼓動が速くなる。しかも彼が今、自分の横でくつろいでいるのだという状況にも気が付き、和泉の胸はますます熱くなった。
 他人と付き合うのは面倒だと言っていた藤崎が、自分の存在を受け入れてくれている。
 そのことが嬉しくて、和泉の頬は自然と上気したが、同時に自惚れや勘違いかもしれないという不安も意識を掠める。自身が発する警告に気持ちを乱され、和泉は思わず掴んでいた相手の掌を、ぎゅっと握った。
 藤崎の目が僅かに見開かれる。
「あ」
 相手を驚かせたことに気付いて、和泉は慌てた。女の子ならともかく、男の手を握るなんて、奇妙に思われて当然だ。自分の行動にうろたえ、和泉の腕が強張る。
 だが藤崎は何も言わず、その手を強く握り返してきた。長い指はしっかりと和泉を捉え、繋ぎ止めている。重なり合った掌から、相手の体温が流れ込んでくるのを感じ、和泉はその分自分の熱が上がっていくような錯覚に陥った。半ば茫然としたまま藤崎の顔を見返すと、彼は照れ臭そうに横を向いてしまったが、その手が解かれることはなかった。伝わる温もりは熱いくらいで、何だか頭までぼうっとしてくる。
 どうしてよいのか判らなくなって、和泉は上半身を支えていた腕を外し、そのまま床の上へころりと横になった。背中を丸めると、繋がれた二人の手が目に入る。
 一層速くなる心音に混乱しながらも、だが和泉はその手を離そうとはせず、自分達の腕の上を行き来する木漏れ日を、意味もなくただ目で追い掛けていた。
 勿論藤崎の方は、和泉の心情を全て理解していた訳ではない。むしろこの状況に激しく動揺し、その混乱は和泉以上であったのだが、考えるより先に掴まえてしまった相手の手を、自分の方から離すことは出来なかった。
 既に体中に行き渡ってしまった熱さは離れたところで治まるとは思えなかったし、鍵の掛けられたこの空間では、誰かに見咎められるようなこともない。
 いつもの倍程も大きく聞こえる心臓の音に乱されているのか、それとも促されているのか。自らの行動の意味が判らないまま、それでも二人は、温もりを伝えてくる相手の手から離れようとはしなかった。








 

  







 

 

 

 


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