楽園の扉
3




 

「……いや…だから、コレじゃ意味ないんじゃねーの」
 手渡されたいちごオレを眺めながら呟いた藤崎に、和泉はあっけらかんとした調子で答えた。
「んー、だって俺も他に思い付かなくってさ。いーじゃん、次回は藤崎が奢ってよ」
「……それはまあ、いいんだけど」
 そういう問題なのだろうか。
 複雑な表情を浮かべる藤崎に気付いているのかいないのか、和泉は鼻歌などを歌いながら、マイペースに昼食を広げ始めている。大きく開け放たれた窓から舞い込む爽やかな風が、毛先の跳ねた彼の髪をふわふわと揺らしていた。今日は天気も良く、暖かい。風通しの良いこの教室で昼寝でもすれば、さぞ気持ちが良いことだろう。
 じゃ、なくて。
 藤崎は改めて、和泉の顔を見下ろした。視線に気付いた彼は弁当箱の蓋を持ち上げたままのポーズで、顔を上げる。
「……え、と。今日は教室帰る?」
「え?いや…」
 ジュースを手にしたまま突っ立っていた藤崎を不審に思ったのか、和泉は幾分小さな声でそう尋ねてきた。気のせいか子供に縋られているようなその雰囲気に、藤崎は戸惑いながらも首を振る。
 こうなると藤崎としても同じように昼食を取り始めざるを得ない。和泉の向かいに腰を降ろし、コンビニで買って来た弁当を取り出しながら、藤崎は現在のこの状況に、ただただ困惑していた。
 彼と知り合ってから、既に数週間の月日が流れていた。一言謝罪を入れて終わると思っていた関係は、意外な方向へと続いている。渡された品へのお返しのつもりで差し出したジュースの、更に「おつり」を返すと言って、次の日和泉が藤崎の教室までやって来たからである。しかも何故か和泉が持って来たのは、藤崎が渡したものと同じ紙パックのジュースであった。校内で販売されているもので済まそうとすると同じものになってしまうのは仕方のないことなのだが、それを受け取ってしまうと状況は最初に逆戻りすることになってしまう。困惑したまま受け取りを渋る藤崎に、だが和泉はかなり強引にそれを握らせ、にこやかに手を振りながら去ってしまった。
 そしてその後店頭で散々迷った藤崎がどうしたかと言うと、結局また似たようなジュースを購入して、和泉のもとを訪れたのである。
 半分困ったような顔でそれを差し出した藤崎を見て和泉は笑い出し、それ以来何故か二人は交互に飲み物を奢り合うようになってしまったのだ。不毛なことこの上ないのだが、どちらも上手いお返しを思い付けない為、今のところ状況が好転する兆しはない。それどころか、ここ旧校舎で一緒に食事をとることが珍しくもなくなっており、それに慣れてきている自分がいたりするのが、藤崎には不思議でしょうがなかった。
「今日は天気もいいし、気持ちいいよなー。この教室、他んとこより広くて落ち着かないってんで敬遠されてたらしいけど、窓いっぱいに緑が見えて、俺は気に入ってんだよねー」
 おにぎりを頬張りながら、和泉がにこにこと笑う。同じように窓に目をやると、一面に並んだ大きな木々が、初夏の風に葉を揺らし、涼しげな音を立てていた。チラチラと予想の出来ない動きで入り込む日差しが窓際を行き来し、くすんだ床板を飾っている。
「葉っぱって、光を反射するって知ってた?」
 続いた和泉の台詞に、藤崎は隣を振り向いた。
「鏡みたいな作用があるんだって。だから直射じゃない分、日差しが柔らかいっていうか、ちょうどいいカンジに――」
 食事の手を止め自分を見ている藤崎に気付いて、和泉は途中で言葉を詰まらせた。途切れた台詞を不思議に思った藤崎が口を開く前に、彼は小声で問うてきた。
「――ゴメン、うるさかった?黙っとく?」
 藤崎はその台詞に少し驚いて、微かに首を振った。
「いや、そうじゃなくて……」
 言い淀んだ藤崎の言葉の続きを待つように、和泉は食べかけのおにぎりを握ったまま、じっとこちらを見つめている。
「そう言えば、迷わずこの部屋選んでたなって思って…旧校舎って、俺らにはあんま縁のないとこなのに」
 藤崎と同じく、和泉も部活には入っていないらしい。それ故先輩から情報を得る機会もないだろうと思ったのだが、
「や、実は、兄貴がここ通っててさ。俺らと入れ違いで卒業しちゃったんだけど、
その兄貴がずっとこの部屋使ってたんだって。だから今年はまだ空いてるかなって思ってさ」
 聞いてみると、案外答は簡単であった。
 成る程物怖じしない性格のようだし、興味の赴くまま足を踏み入れて、そのまま通うようになったのだろう。導く者がいたのならば尚更だ。
 しかし、藤崎にはもうひとつ疑問に思っていることがあった。
「でも何で一人で来てたわけ?こんな広いんだし、誰か誘ってくりゃいーじゃん」
 そうなのだ。
 明るく人懐っこい雰囲気の和泉は、どう見ても『一人が好き』というタイプには思えない。お返しの品だけ置いて帰る素振りを見せると、明らかに肩を落とし、それこそ捨てられた子犬のようになってしまう彼である。あまつさえ、愛想のない藤崎相手でも楽しそうにお喋り出来るくらいだから、他に親しい友人がいないわけはないと思っていた。
 しかし和泉は藤崎の何気ない問いに大きく瞳を見開き、困ったように俯いてしまった。
 藤崎はつられたように目を見開き、驚いて縮んだ脳細胞を必死に動かそうとしたが、景気良く動いているのは己の心臓だけである。
 まさかイジメにでも合ってるのか?いや背は小さめかもしれないが特にひ弱そうには見えないし、中身もごく普通な感じだし、そんな目に合いそうな要素は見当たらないじゃないか。そもそも高校生にもなってイジメなんてする奴がいるのか?
 体も表情も固めたまま、駆け回った自分の想像にいやな汗をかいた藤崎だったが、黙って俯いている和泉に、更に慌ててしまう。
「わ、悪い。言いたくねーなら」
 けれど藤崎の台詞を遮るように、和泉はぱっと顔を上げた。
「あ、待って、言いたい言いたい!」
 いきなり大きな声を出されて、驚いた藤崎は思わず箸を落としそうになった。
逆に和泉の方は手に力が入りすぎて、形の崩れたおにぎりから具が零れ落ちそうである。
 だがその表情は深刻な告白をしようとしている辛そうなものではなく、どちらかと言えば何だか恥ずかしそうに見えた。どうやら自分の想像は的を外していそうだと安堵したのも束の間、微かに頬を染めた和泉は再び目を伏せて、理解し難い台詞を吐いた。
「えと、何て言うか、俺人付き合い上手くなくてさ」
 その突拍子もない台詞に、藤崎は目を瞬かせた。
「…いや、ウソだろ」
 出てくる声も、ついボソリとしたツッコミ口調になってしまう。しかし和泉は小さく首を振り、床の上を揺れ動く陽の光を追うように、視線をさ迷わせた。
「距離の取り方が判んないって言うか…仲良くなると嬉しくて、すぐベタベタしたくなっちゃって。それであの、ウザがられたこととかあってさ」
 和泉の口元は微笑むような形を作っていたけれど、浮かんでいるのは笑顔ではない。少なくとも藤崎には、彼が笑っているようには見えなかった。
「飯食うだけなんだけど、だからこそこゆとこにわざわざ誘うのはどうなんだろとか…くっ付いてもいい加減というか、判断に自信がなくて」
 その告白に、藤崎も思い当たることがあった。一緒に過ごすようになってからひと月も経っていないのだが、人懐こいかと思えば急に遠慮したり、不自然なタイミングで引いたりするのを不思議に思っていたのである。それはつまり、距離を測らなければという和泉なりの努力の表れだったのだろう。
 小さな背中を丸めたまま床を見つめている和泉に、藤崎はぽつりと言葉を返した。
「…あー…つまり、俺と逆なのか」
 その呟きに、和泉がゆっくりと振り返る。
「逆?」
 こんなところで白状させられるとは思わず、藤崎は意味なく箸を弄びながら、ぼそぼそと答えた。
「俺は人と関るのってどうも…面倒くさくて苦手だから」
 その答に和泉はさっと表情を曇らせた。
「…ごめん、それなら俺と飯食うのもめんどくさいよな。俺、誰かと一緒にいられんのやっぱ嬉しくて、つい」
 悲しそうに瞳を歪ませる相手に、藤崎は内心慌てた。確かに初めは正直困惑していたし、現在も戸惑ってはいるのだが、心底嫌ならこんな風に付き合わずに、さっさと関係を終わらせていたはずである。
 自分でも意識していなかったが、ここに足を運ぶことは、どうやら面倒ではないらしい、のだ。
「え、いや、お前は、面倒っつーか…」
 困って言葉を濁した藤崎を、和泉は真剣な顔で見つめている。
「つーか、なに?」
 詰め寄られ思わず体を引いた藤崎に、和泉ははっと目を開き、慌てて頭を掻いた。
「ゴメン、俺コレが悪いんだよな」
 ますます頬を染める和泉を見て、そうか、と藤崎は口の中で呟いた。
 和泉は適当に流すのが下手で、結果的に相手に踏み込みすぎてしまうのかもしれない。
 そして自分はこうやって、常に全てを曖昧に終わらせようとしている。
 藤崎は和泉を見、床を見、窓の外まで視線を移動してから、ようやく口を開いた。
「……面倒じゃねーよ」
 それだけ言うのにも何故か必死な自分が恥ずかしい。実際、
「藤崎、顔真っ赤」
 指摘されるまでもなく、頬が熱いのが判る。
 憮然としたまま隣りを見ると、和泉は照れたように、けれどどこか嬉しそうに微笑んでいた。
「…ありがと」
 えへへ、と声に出して笑ってから、和泉は食べかけだったおにぎりに再び齧り付いた。
 つられて微かに綻んでしまった口元を隠すように、藤崎も慌てて箸を動かし始め、二人は少々くすぐったい気持ちのまま、昼食を取ることに専念し始める。
 気恥ずかしいのに不思議と心地好いのは、正反対なのにどこか近く感じる相手と一緒にいるからなのか、それとも木の葉越しに降る柔らかな陽射しのお蔭なのか。
 とりあえず、ここに通うことも悪くないかもしれないなどと、藤崎は密かに思い始めていた。









 二人は共に一年生だったがクラスは離れており、部活が一緒ということもない。他に共有出来るスペースがないことからいつも自然と旧校舎に行くようになっていたので、他の場所で会うことは殆ど無く、互いと顔を合わせている時以外の相手のことはあまり知らなかった。
 そのことに特に問題を感じたことはなかったが、予期せぬ場所で彼の声を聞くと、少々驚いてしまう。
 それが自分に向けられたものなら尚更だ。
「ふじさきー」
 ふいに名を呼ばれて振り返ると、廊下の角で、小柄な少年が勢い良く手を振っているのが見えた。足を止めた藤崎に向かって、赤茶の頭が器用に人影を避けながら近付いて来る。
 待ち合わせというほど大袈裟なものではないが、昼休みに旧校舎で落ち合うのが当たり前のようになっていたので、まだ一限目が終わったばかりの時間帯に和泉と会うのは珍しかった。
 同時に、いつもの場所以外で顔を合わせると、何だか気恥ずかしいのは何故だろうと思う。自分でも不可解な心情を持て余しながら、藤崎は黙ったまま和泉の顔を見返した。彼は無言の相手を気にした風もなく、大きな瞳で見上げてくる。
「丁度良かった。俺今日の弁当中華だから、烏龍茶な」
 何かと思えば飲み物の注文である。小さく頷く藤崎に、和泉は満足そうな笑みを浮かべた。
 惰性のように続いている飲み物交換だが、最近は互いに好みも把握してきて、購入時もさほど迷わなくなっている。和泉の方は時々こんな風にリクエストしてきたりもするので、かなり楽だ。逆に藤崎は特に何も言わないので、和泉は相手の食事内容をじっくり見て、次の日のメニュー傾向を当てるのを楽しんでいるようである。しかし彼の勘が外れた場合、藤崎は牛丼にミルクティーという奇妙な取り合わせを味わうハメになったりもするのだが。
「次英語?」
 和泉が藤崎の手元を覗き込みながら問う。
「ああ、何か映画見るとかで、視聴覚室に…」
 言いかけた藤崎は、急にポンと背中を叩かれて言葉を止めた。
「何してんの?」
 肩越しに振り向くと、同じように英語の教科書を持った仁科が立っている。彼は近寄ってみて初めて藤崎の前に人影があることに気付いたらしく、掲げた腕を中途半端な位置で止めたまま、半歩下がった。
「あ、ごめん。話中だったんだ」
「…仁科?」
 名を呼んだのは藤崎ではなく和泉の方である。
「あれ、和泉」
 一瞬きょとんと目を見開いた仁科を、和泉と藤崎も同じような顔で見返す。三人は、殆ど同時に口を開いた。
「知り合い?」
 最早誰が誰に聞いているのか解らないような状況になり、仁科と和泉は小さく吹き出した。間に挟まれた藤崎は、首を掻きながら、笑い合う二人を交互に眺める。
「僕と藤崎、同じクラスなんだ。て言うか、中学も一緒だったんだよね」
「あーそうなんだ」
 まだ笑いながら仁科に頷いた後、和泉は藤崎を見上げて答えた。
「俺と仁科、委員会同じなんだよ」
「へえ…」
 呟くように返した藤崎に、仁科が説明を求める視線を向ける。まるで今度は藤
崎の番だとでも言いたげだ。
「……えーと」
 どう話していいものか判らず、藤崎は横の和泉を見る。しかし彼もそれは同じだったらしく、僅かに口を開きかけながら、黙って藤崎を見返すだけだ。
 困ったように顔を見合わせた二人を見て、仁科は教科書を抱えたまま首を傾げた。
「…人には言いにくいような仲なの?」
「まあ、そう言われればそうかな」
「な、何言ってんだお前」
 柄にも無く動揺した藤崎の横で、答えた和泉が再び小さく笑い出す。
「そんな照れんなって。じゃ、また後でな。烏龍茶よろしく」
 和泉は仁科にも軽く手を振って、ぱたぱたと廊下を駆けて行った。横で同じように笑っている仁科に促され、藤崎も本来の目的地であった視聴覚室に向かって歩き出す。
「…誤解すんなよ」
 釘を刺すつもりがまた笑われた。藤崎は憮然とした表情で隣りを見下ろしたが、仁科は前を向いたまま、楽しそうな笑みを浮かべている。
「してないってば。ちょっと意外な組み合わせだったから驚いたけど」
 仁科の言葉に、藤崎はふと後ろを振り向いた。既に和泉の姿はなく、見知らぬ生徒達が数人行き交うだけの廊下は、程よく賑やかで、そして静かだ。
 意外と言われるのはよく解る。確かに、ああいうタイプはかなり苦手だったはずなのだ。
 だがそれはもしかして、和泉も同じだったのではないだろうか。ただでさえ相手の反応が気になっているようなのに、藤崎のような判り難い男が相手では、余計大変なのに違いない。
 いや、それが「練習」としては丁度良いのか。
 ふいに浮かんできたその単語に、藤崎は微かに眉を顰めた。
「二人はいつから仲良いの?」
「…仲良いっつーか…」
 振り向いた仁科に、藤崎はぽつりと呟いた。
「……ジュース半個分の貸しが、いったりきたりしてるだけだよ」
 辿り着いた教室の扉に手を掛けたところで、チャイムの音が鳴り響いた。仁科は不思議そうな瞳で藤崎を見ていたが、それ以上何も言わない相手に諦めたのか、黙って一緒に教室へ入って行く。
 藤崎も始めは、旧校舎のあの教室は、他人と上手に付き合う為の練習場所のような気がしていたのだ。互いに相手に対してぎこちないのにも関わらず、それが居心地の悪さに繋がらなかったのは、相手も同じなのだということが解っていたからだ。間合いが取れず反応に迷う場面も多かったが、不思議と通うのを止めようとは思わなかった。
 しかしよく考えてみれば、積極的に人と関わろうなどと思っていなかった自分が、関わる為の練習などする必要はなかったのだ。それなのに律儀に「お返し」ではなく、新たな「貸し」になるものを抱えて旧校舎に通っているのはどうしてなのか。
 相手に興味を持ち始めている自分に気付き、藤崎は戸惑っていた。同時に、和泉はどういうつもりであの場所へ通っているのか、酷く気になり出していた。







 

 







 

 

 

 


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