山上夕季さま(AM902Library)
プ ラ イ ド どうしてこんなに簡単なことに気付かないんだろう。これは、俺の中の七大不思議の一つである。 少し考えればすぐに分かる筈なのに、クラス替えから3ヶ月が経過しようとしている今現在、奴は一向に気付く気配がない。その鈍さは、いっそ天晴れと拍手したいほどである。 今もそのバカは俺の隣に座り、映画館のスクリーンに映し出される映像を身を乗り出さんばかりにして見入っている。キラキラと目を輝かせている様は可愛いとは思うが、すぐ側にいる俺のことなど全く眼中にないに違いない。本当に腹立たしい限りだった。 こいつは、どうして俺が興味の欠片も湧かない映画に、放課後の貴重な時間を割いてまで付き合ってやっているのか、とか、他人と群れるのが嫌いでクラスメートとすら極力関わりにならないようにしているのに、奴の面倒だけはこまごまと見てやっているのか、などといった事柄を一度も不思議に思ったことはないんだろう。そんな所まで気が回る奴じゃない。多少なりとも気が利くようなら、今頃俺のイライラも少しは解消されている筈だからだ。 「すごく面白かった」 退屈きわまりない映画がようやく終わったらしい。満足そうな顔で、奴はうっとりとため息をついた。 「英二(えいじ)も見た、あのシーン? 迫力あったよね」 「……ああ」 この「……」の間に去来するさまざまな俺の思いを、このバカもいい加減気付くべきである。 「もう一回見たいな」 冗談じゃない。今回で3回、俺はこの映画に付き合ってやった。それなのにまだ足りないというのか。いまだに往生際悪く映画の余韻を引き摺っている奴を追い立てるようにして、俺たちはその場をあとにした。少し本屋に寄りたいというから、進路を変更する。学生らしく問題集でも探しに来たのかと思いきや、奴は俺を置き去りにして、真っ先に雑誌コーナーへと突進していった。 もう文句の言葉すら尽きたね。2階の参考書コーナーを一回りし、興味深い問題集を2、3冊ほど購入してからあいつの元へと足を運んでみると、小学生に交じって漫画雑誌を熱心に読みふけっている。ため息が出た。 「帰るぞ」 「え? ……あっ、ちょっと待って。これ買ってくるから」 読んでいたものとは別のを何冊か手にとり、あいつはレジへと向かった。 「今日発売日だったんだ。さっき見た映画があったでしょ? あれの原作がこれ」 ニコニコと嬉しそうに教えてくれる。いくら心が海のように広い俺でも、漫画やアニメは許容範囲外だ。いろいろ説明されても、右から左に全部流れて何のことやらさっぱりだった。だから「良かったな」以上のコメントははっきりいって不可能だ。それでも奴は満足したらしく、買ったばかりの本を大切そうに抱えて俺へと微笑みかけた。 バカの名前は、春名いぶきという。名前からして年がら年中幸せそうで、全くもって羨ましい限りだ。この春、高校2年生に進級しクラスメートになった。身長は高校男子の平均身長はあると以前自己申告していたが、隣を歩いていると春名のつむじがいつも見える。おそらく多少の見栄をはっているのだろう。が、その辺は深く突っ込まないようにしている。拗ねると面倒だからだ。体重も嘘だろうな。申告より軽いだろうと俺は見ている。 性格は一言で言えば単純明快。考えていることが手にとるように分かる。ついでにバカなくせして、アニメやら漫画やらにやたら詳しい。他人の趣味をとやかく言うつもりはないが、こいつのおかげで、俺は一度も見たことのないアニメの登場人物を、人物相関図も含めてソラで言える。本当に涙が出るほどありがたい。その記憶力の5分の1でもいいから、もっと別のところに使ってくれと土下座して頼みたいくらいだ。 まあ、この程度のことなら、オタクだろうがマニアだろうが、好きなだけその道に進んでくれて構わない。俺くらいの出来た人間になると、そういうのも全てひっくるめて春名という人間を構成している要素だと認識し、認めることができるからだ。他人だとこうはいかない。入学当初から、春名いぶきは変人として名を馳せていた。遠く離れたクラスの俺にも噂が伝わってきたくらいなので、相当のものだろう。 アニメシリーズのビデオを完徹して見たせいでテストはボロボロ、追試を受けるなんて光景は珍しくなく、そんな春名の為に放課後個人授業をしてやる面倒見のいい委員長、というのが現在の俺と春名の周りが認識している関係だ。周囲は俺を被害者扱いして勝手に同情を寄せているが、事実は逆だ。好きなものに集中しすぎて、すぐ隣にいる俺の存在すら忘れがちになる春名に、そうはさせてたまるかとばかりに口実を作って構っているのである。 俺が許せないのは、こんなにも心を砕いている当の春名の興味の対象が、欠けらほども俺には向いていないということだ。 春名の頭を占めているものが紙の世界の住人だけなら、俺はこれほど苛つきはしないだろう。どんなに好きだろうと所詮は創作物。生身の人間が勝てないわけがない。 けれどこのバカは、リアルで恋をしている――らしい。本人は隠しているつもりでも、この俺の目をごまかせるわけがない。適当に突付いてみたら、渋々白状しやがった。 相手の名前は沖島英隆(おきしま ひでたか)、26歳。俺たちのクラスの副担任だ。春名の言葉をそのまま引用すると、「運命の人」なんだそうだ。 「すごくかっこいいんだよ」 ため息をつくように言う。こいつの要領を得ない説明をまとめると、こうだ。 何でも、春名が満員電車の中で倒れかけた時、助けてくれた男がいたらしい。具合を悪くした春名をそいつは次の駅で降ろし、駅員が来るまで付きっきりで側にいたそうだ。だが体調が回復した春名が礼をいおうと思った時、既にその人物は忽然と姿を消していた。たいしたことはしていないと誰にも名乗らなかったらしい。連絡先すら分からない。 「あの時はもう本当に目の前が真っ暗になっちゃって、ダメだと思ったんだ。……結局、試験には間に合わなかったんだけど、でも嬉しかったな」 このバカは、模試の前夜にも夜を徹して漫画を読みふけり、その後突然閃いたらしいストーリーの構想を、朝まで一心不乱に練っていたそうなのだ。春名にとって、次の日の試験よりも、実になるかどうか分からない、今は趣味としか言えないものの方が重要なのだ。ああ、言い忘れていたが、春名の将来の夢は漫画家になることだそうだ。子どもの頃から変わらない夢を持ち続けているのは素晴らしいことだと思うが、そんなわけで睡眠不足でフラフラしながら試験会場へと向かった春名は、電車の中で貧血を起こした。眩暈で薄暗くなっていく視界と遠のく意識の中、助けてくれた相手の顔も名前も分からずじまいの春名が、唯一覚えていたのが男の声だったらしい。 「クラス替えで初めて先生の声を聞いた時、この人だって思ったんだ」 絶対に運命の人だよ、と春名は嬉しそうに笑った。はっきり言って面白くなかった。お前のその目は節穴かと問いただしたくなる気持ちを押さえるのに、俺は相当の努力を強いられた。確かに沖島は人当たりもよく、教え方も上手いと生徒の評判も上々だ。クラスの女子らの会話を漏れ聞くにも、奴はそれなりの人気があるらしい。春名が一目惚れだの何だのと一時の気の迷いでポーッとなるのもいいだろう。けれど沖島は既婚者だ。春名の運命の相手なわけがない。授業中こそ外しているようだが、それ以外では目にする機会のある左手の指輪に、どうして春名は気付かないのか、その鈍さに俺はことあるごとに頭痛を覚えた。いくら何でもマリッジリングのことを知らないというわけではないだろうし――そんな俺の疑問は、あっさりと解決した。 「沖島先生って、おしゃれだよねえ」 春名はそのままの春名でいればいい。周りのことは、全部俺がフォローしよう。ただ、もう少し――隣にいる人間のことを重点的に、彼は視野を広げるべきだと思う。 春名に真実を告げるタイミングを、俺は計っていた。最初の頃は、今すぐにでも目を覚ませと襟首を掴んで揺さぶってやりたかったが、そういった野蛮なことは温厚な俺の趣味ではない。あくまでさりげなく、ごく自然に本人が気付くのが望ましい。そして真実に気付いた時、ずっと側にいた俺という存在の大きさを自覚してくれれば言うことはない。 俺は、自分という人間の性質をそれなりに分かっているつもりだ。春名に真実をあっさり教えてやるほど人は良くない。おまけに人並みに、いやおそらくそれ以上に欲望も独占欲もある。一度手に入れたものを離すつもりはないし、手に入れようと決めたものを諦める予定も今のところない。俺みたいな奴に狙われた春名には気の毒だが、それこそ彼の好きな「運命」だと思って受け入れてもらうしかないだろう。気に入らない奴にはとことん冷徹になれる俺だが、自分のものは大切にする。だから安心して落ちてくればいい。 春名の言葉をそのまま使うのなら、彼の「運命の人」は俺なのだから。 「あれ、出かけるのか?」 休みの日、春名との待ち合わせ場所へ出向こうとしていた俺は、玄関先で兄と鉢合わせた。嫌な奴にあったと己のタイミングの悪さに歯噛みした。 「そう。帰りはいつになるか分かんねーから、メシなら適当に済ませといて」 「母さんたちは?」 「泊りで旅行。父さんが珍しく長期休暇とったってんで、いそいそと計画立てて出て行った」 「ああ、リストラでもされかけて有給消化してんのか? 了解、こっちはこっちで勝手にやるとしよう」 縁起でもないセリフをのたまいながら、兄貴はひさびさの実家に寛ぐ気満々だった。 「誰もいないなら、それはそれでありがたいな。ここんとこ一人でゆっくりできる時間がとれなかったからな。ちょうどいい、お前のベッド借りるぞ」 「ダメだ。昼寝がしたいなら、客間に布団敷いて寝ろよ。あと、勝手に人の部屋に入るなよ」 「……昔は、お前も可愛げがあったのになぁ」 大袈裟に顔をしかめる兄をやり過ごし、外へ出た。あれは当分実家に居着く気だ。高校卒業と同時に家を出て行ったまま寄り付きさえしなかったのに、一体どういう風の吹き回しだろう。 待ち合わせ場所に、ぼんやりと春名は突っ立っていた。その視線の先には、どでかいアニメキャラの看板。嫌な予感がした。 「英二、英二。ちょっとだけ、あそこ寄ってこ?」 「ダメだ。今日は美術館に行く約束になってただろう」 「えー」 なぜ、そこまで恨めしげな視線で見つめ上げられなければならないのか。 「10分だけだからさ」 この場合、統計的に春名の10分は、世の中に流通している時計の2時間とイコールで結ばれている。悪気はないが、夢中になりすぎるあまり、俺の存在はつい忘れがちになるんだそうだ。素直なところは春名の長所だと思うが、「つい」なんて一言であっさりと済まされてしまう俺の心はズタズタだね。可愛さあまって憎さ百倍という言葉が存在することを、近いうちに春名は知ることにならなければいいが。 「美術館に行きたいって言ったのは、春名だったよな?」 諭すように言う俺に、彼は仕方なさそうに頷いた。まるで我が侭を咎められた子どものようにシュンと肩を落とす様子は、襲いたいくらい可愛い。が、心を鬼にして続けた。 「沖島に勧められたって言ってなかったか?」 「あ、そっか。そうだよね」 沖島の名前を出した途端、この変わりよう。ぱあっと目を輝かせた春名は、打って変わって積極的に美術館行きへと興味を移した。以前沖島の口から出た一言を、ずっと心に留めていたらしい。俺は、春名ほど沖島のことを買っていなかった。おそらく沖島自身、他愛のない雑談の一つとして美術館の話題を口に上らせただけで、本人はそんな話をしたことすら忘れているに違いない。そこまで細かいことに耳を傾ける注意力を、どうして春名は俺へと向けないのか不思議で仕方がない。 連れ立って美術館へと入った俺たちは、沖島が気に入ったという企画展を見て回った。中々興味深かったが、白々しいと俺は胸の内で吐き捨てた。どう考えても、これは沖島の趣味ではないだろう。校内で見せているほど、沖島の本性は穏やかでも人徳者でもない。そう春名に教えてやりたかったが、奴の尻尾を掴むまでは俺の方が不利だった。きっと何を言っても「嘘吐き」で済まされてしまうだろう。それでは困る。 春名の目をこちらへと向けるいい手立てはないものか、とろくすっぽ展示物を見ないで悩んでいるうちに、本日の目的は果たしてしまった。 「やっぱ先生のおススメだけあって、楽しかったね」 ご満悦の春名に、何故かため息が出た。 「今日は付き合ってくれてありがと」 言った後、春名は少し戸惑ったように俺を見上げた。 「え……と、英二はつまんなかった? もしかして、俺、無理やり誘った?」 「いや。面白かったよ」 まだ笑顔の戻らない春名に、俺は告げた。 「時間もあることだし、さっきの場所に戻るか?」 「え? ……いいの?」 「行きたいんだろ。顔に書いてある」 こいつを喜ばせるのが俺じゃないというのが些か腹立たしいが、惚れた方が負けというのも事実だから仕方なかった。 「俺に文句を言いに来る前に、直接本人に言えばいいだろう」 沖島英隆は、うんざりしたように俺へと向かってわざとらしくため息をついて見せた。確かにそのとおりだ。けれど、こいつに改めて言われると余計腹が立つ。 「ほんの少しでも自分が嫌われる可能性は排除したいってか? 下手にプライドが高いのも、大変だな」 揶揄するような口調に、思わず言い返そうと口を開いた時だった。ノックの音がした。 「失礼しまーす」 能天気な声とともに、春名が入ってくる。 「先生。今日の授業で分かんないとこがあって、教えてほしい……あれ、英二?」 きょとんとした顔で、春名は俺と沖島を見比べた。 「英二って、沖島先生の授業を選択してたっけ?」 首をかしげる春名に向かって、沖島は笑いかけた。 「廊下を歩いているところをたまたま見つけてね、運んでた資料が重かったものだから、無理を言ってここまで手伝ってもらったんだよ。――悪かったね、助かったよ」 いかにも作りましたって感じの、嘘臭い爽やかぶりで沖島が俺へと顔を向ける。 「そうだったんですか」 お前も分かりやすい嘘にコロッと騙されるな。 「それで、今日は何の用かな、春名君」 「あっ、そうでした」 いそいそと、腕に抱えてきた教科書とノートを広げ始める春名の腕を掴んだ。 「俺が教えてやる」 「え? えっ?」 「行くぞ」 有無を言わせない勢いで廊下へと引っ張り出した途端、春名は怒り始めた。 「なんで邪魔するんだよ。せっかく先生のとこに行く理由を作って来たのに」 「もうやめとけば? 運命だってわりに、春から全然進展してないじゃないか、お前と沖島」 「こっ、これからだよ!」 気にしていることを指摘されたためか、春名の頬は赤く染まっていた。 「英二だって協力してくれるって言ったじゃないか」 そんなことを言った覚えは、残念ながら一度もない。仮に頼まれたとしても、この俺が引き受けるわけないだろう。奴に釘を刺すつもりでわざわざ出向いたというのに、思うような結果が出られなかったことに俺は多少苛立っていたのかもしれない。 「どんなに頑張っても、春名じゃあいつの相手になんねえよ」 言った途端、しまったと後悔した。きつくこちらを睨みつけてくる視線に、俺は相当彼を怒らせたことを知った。何か言いたそうに口を開きかけ、結局何も言わないまま唇を噛み締めると、春名はくるりと俺に背を向け走り去ってしまった。 それから三日間、春名は学校に来なかった。元からサボリ癖のある春名に、欠席の理由まで気に留める者はいなかった。まさか俺の一言で海よりも深く傷ついて、傷心のあまりベッドから起き上がれなくなったんじゃないだろうな。己の想像力の貧困さを鼻で笑いとばしたが、あいつは時々俺の予想とかけ離れた行動をとることがあるから油断できない。三日目の放課後、見舞いと称して俺は春名の家へと足を向けた。 傷心うんぬんは冗談として、風邪でも引いてるのではないだろうかという俺の心配は遥か彼方で裏切られた。何度か呼び鈴を押すうちに、案外ケロッとした顔で現れた春名は、俺の姿を認めた途端バツの悪そうな顔で目をそらした。いつも学校をサボるたびに叱っていたから、今回もそうだと思ったんだろう。 「英二…」 「起き上がっても平気なのか?」 怒り出すこともせず尋ねる俺に、あからさまにホッとした顔で春名は頷いた。 「え? うん、それは平気。……え、と。上がってく?」 少し散らかってるけど、と前置きをして春名は自室へと案内した。だがそこは、「少し」と表現するのに些かためらう惨状だった。 「……締めきりが近くて、それで、その…」 ドアを開けた途端固まった俺の背後で、言いにくそうにボソボソと春名は告げた。つまり学校を休んでいる間、投稿作品を仕上げていたというわけか。もしかしなくても俺のせいなのかと反省した自分と、重い病気を煩ったのかもしれないと心配した自分が、手に手を取り合って笑いながら飛んでいった。さすが春名、俺をここまで振り回すのはお前だけだ。 「で、その締めきりとやらには間に合うのか?」 「微妙…」 あと2、3日学校休めば何とかなりそう。エヘと悪びれず笑った春名へ、俺はくるりと振り返った。 「今日中に仕上げろ」 「ええー? 無理だよ、そんなの」 「無理じゃない、やれ。俺もできるところは手伝ってやるから」 最初は俺の申し出にためらいを見せていた春名だったが、俺に譲る気がないことを悟り、「じゃあ頑張ってみる」と気弱な返事をした。 購読誌の傾向からてっきり少年漫画だと思っていたが、春名の描いていたものは少女漫画だった。渡された原稿の可愛らしい画面に思わず絶句した俺に、ふてくされたように春名が言う。 「だから、あんまり見せたくなかったのに」 どうりで何度探りを入れても、描いているものを頑なに教えてくれなかったわけだ。 「少女漫画も少年漫画も、どっちも同じくらい好きだよ。でも描くのは、こっちのがいいんだ」 砂糖菓子のように甘い、読んだ後幸せになれるようなものが描きたいんだと言う。 「やっぱ、俺ヘンだと思う? おかしいよね、そんなの」 春名に教えられたとおり印のついた部分を黒く塗り潰しながら、俺は答えた。 「でも描きたいんだろう? 絶対に漫画家になるって言ってたよな」 「うん」 「だったら、周りの言うことは気にすんな。やりたいことが見つからないままフラフラしてる奴らより、よっぽどお前の方が偉いよ」 ふと春名の手が止まった。 「俺の描いてる物を知って、そんな風に言ってもらうの、初めてかも。……ありがと。ちょっと自信出てきた気がする」 次の日の一限目が、いきなり自習でよかったと心底ホッとした。叱咤激励を繰り返しながら、原稿はなんとか完成した。結局一睡もしないまま仕上げたことへの達成感と疲労のせいで、春名は俺に凭れかかるようにして眠り込んでいる。糸が切れたように意識を無くした春名の身体を支えながら、これは大変な技術職だとため息をついた。俺は一晩くらいの徹夜は平気だが、ここのところずっと一人で根を詰めて作業していたという春名は大変だったろう。 疲れがにじみ出ているものの、眠っている春名の表情はどこか満足そうだった。こんなにも間近で寝顔を拝めるのは珍しい。春名の疲労回復を考えればベッドに運んでやるのが一番だろうが、せっかくの機会にそんなもったいない真似ができるわけがない。キスくらいしても気付きそうになかったが、意識のない相手に仕掛けるのは好みじゃなかった。気持ち良さそうな寝息と、時折頬と首の辺りにあたるサラサラとした髪の毛の感触を堪能した。 数時間ほどのささやかな時間のあと、春名が身じろいだのを機に起こす。好きなだけ寝かしてやりたかったが、ただでさえ出席日数がやばい春名に4連休はまずいだろう。 「大丈夫か?」 「……うん。――え?」 パチパチと春名は瞬いた。どうして俺がここにいるのかとでも言うような、不思議そうな顔をするのに苦笑した。 「英二?」 「そうだけど。昨日原稿手伝ってやったのを忘れたのか? 寝ぼけるのも、今だけにしとけよ」 「あ、うん」 まだぼんやりしている春名を急かして学校へと向かう。たった数時間の睡眠で回復しないのは当然か、その日の春名はいつにも増して上の空の時間が多かった。 「思い切って、先生に告白してみようと思うんだ」 数日後の放課後、突然春名は言った。言った後、俺の意見も聞きたそうにしていたが、どうせ俺が何を言おうと春名の決意は変わらないだろう。相談の形をとっていても、彼が何かを口にする時、それは既に決定事項なのだ。バカで世間知らずでぼんやりしているくせに、妙に頑固で強いところがあるのが春名だった。 「いいんじゃないの」 無関心を装って答える俺に、春名は少しばかりつまらなそうに口を尖らせた。つまらないのはこっちだ。ここ最近、何やら一人で考え込んでいるようだったから悩み事かと心配していたら、沖島のことだったとは。どうせなら俺のことで悩めと言いたい。 「沖島先生は優しいけど、それは俺だけにじゃないし。色々と頑張ってんだけど、いまいち先生気付いてくれてないみたいだし。英二に言われたとおり、全然進展しないし」 チラリと最後に付け加えられた嫌味に、肩をすくめた。 「このへんで、直接ぶつかってすっきりしようと思うんだ」 「そうだな。思う存分玉砕してこい」 「ひどい。……でも、ダメだったら英二に慰めてもらうからいいよ」 「同じ映画は、2回までなら付き合ってやる」 軽い口調で言う春名に合わせて返すと、ニコッと笑って彼は教室を出て行った。少しして春名の物らしき悲鳴が聞こえ、俺も慌てて教室を飛び出した。 「春名っ」 沖島の元へと急ぐあまり、階段を踏み外したらしい。だからいつも落ち着けと言っているのに。ひとまず大事に至ってはいない様子に胸を撫で下ろした。だが、安心すると同時に春名の置かれている状況に腹が立ってくる。俺の目に映る状況から推察すると、階段から落ちた春名だったが、そこをたまたま沖島が通りかかった。沖島は自分の所へと落ちてくる春名に驚いたものの、しっかりと受け止めた――という感じだ。いつまで抱き合ってんだ。早く離れろ。 沖島は階段の上にいる俺に気付くと、誰にも分からないよう俺へと向かって口元を上げて見せた。そしてまるで俺に当て付けるように……違う、まるでではなく、明らかに俺への当て付けに春名の肩を抱いたのだ。瞬間的に頭に血の上った俺は、猛然と春名へと駆け寄り、抱き合っている二人を引き剥がした。 「英二?」 「どこも怪我をしてないな?」 「平気だよ」 「だったら、帰るぞ」 背後で沖島がニヤニヤと笑いながら見ているのが分かったが、どうでもよかった。俺に大人しく腕を引かれながら歩いていた春名が、ポツリと呟いた。 「沖島先生、いい匂いがしてた」 「コロンでもつけてんだろ」 「そうだよね。近づかないと分かんないくらいだったけど、毎日かな」 「そうじゃねーの?」 沖島なんてどうでもいい。そんなどうでもいいものに、ずっと気をとられている春名にまで腹が立つ。完全な八つ当たりだと分かってはいても、イライラはおさまらなかった。教室に戻り、二人分の荷物を掴んで玄関口へと向かう。途中、「痛い」という声に我に返った。苛立ちのあまり、力の加減を忘れていた。 「悪い」 拘束していた腕を離すと、春名は困ったように俺を見た。 「なんで、英二は怒ってんの?」 「別に。怒ってなんかない」 「嘘だ」 軽く舌を打つ。普段はそれで納得するくらい鈍いくせに、こんな時だけ気付く春名が憎かった。 「いっつもそうやって、「何でもない」とか「俺には関係ない」って言って英二は誤魔化すんだ。ずるいよ。俺のことは何でも聞きたがるのに、どうして自分のことは隠すんだよ」 何言ってんだ。今まで一度も俺のことを見ようともしなかったくせに。この状況で、そのセリフはたまらない。いっそのこと全部ぶちまけてやろうかと口を開きかけ、寸前で俺は思いとどまった。以前あいつが言っていた言葉が脳裏に蘇る。そうだ、下手なプライドに邪魔されて、俺は何も言うことができない。くだらないプライドだと分かっているが、今更どうにもならない。春名と違って、俺は勝敗の分かりきっている勝負に出るような真似は出来ない。あいつのことが好きだと言って憚らない春名に告白なんて、そんなみじめなことはしたくない。 ギリギリと拳を握り固め、胸の内を渦巻く激情が去っていくのを待った。これ以上春名の側にいたら、何をするか分からなかった。 「俺、確かに英二の言うとおりバカだよ。だから、ちゃんと言ってくれないと分からないよ」 頑なに何も言わない俺に、春名は諦めたように俯いた。 「英二、俺に何か隠してることがあるだろ。……どうしても言いたくないならいいけど。でも、何にも言ってもらえないほど、俺ってどうしようもない奴だったんだって思ったら、それだけで俺」 情けない、と続けようとした春名の言葉を塞いだ。廊下の壁に無理やり押し付けて、上向かせて唇を塞いで――驚愕に見開いた目が印象的だった。構うものかと思う。苦しさに喘ぎながら逃げようとする顎を捉えたまま、深く貪った。俺の腕を掴む春名の指が、制服を通して皮膚に食い込む。その痛みに、吹き飛んでいった理性が僅かながらも戻ってきた。ようやく解放され、荒い息を繰り返しながら春名が俺を見上げた。 「気が済んだか?」 「……英…」 「これを知ってどうするんだ? お前の好きなのは、俺じゃないんだろ?」 自分でも驚くくらい冷たい声に、春名の肩が震えた。最悪だ。よりにもよって、こんな形で自分の手で台無しにしてしまうなんて。 階下で、消してしまいたいほどうっとうしい笑い声が響く。一人娘を連れて里帰りしていた義姉が、帰ってきたのだ。最初から兄がここに滞在してると連絡を受けていたらしく、手土産を携えてやってきた彼女らを、俺の父母はなかなか離す気配がない。先日帰ってきたばかりの旅行の土産話で盛り上がっている。 うるさい。普段は気にならない小さな姪のはしゃいだ声も、今はとてつもなく癇に障った。しばらく外へ出てこようかと起き上がった時だった。携帯が鳴り響く。着信画面を見て、眉をひそめた。しばらくは無視をして、いつまでも鳴り止まない呼び出し音に、渋々通話ボタンを押した。 「英二?」 いきなり耳に飛び込んできた春名の声に、俺は淡々と返した。 「そうだけど。何?」 あの日以来、春名とは口をきいていなかった。向こうが俺のことをどう思ったかなんて知らないが、春名から接触してくる気配はなかったから、そういうことなんだろう。 「これから、そっちに行ってもいい? ……ちゃんと話をしたいと思って」 「あのことなら俺が悪かった。春名の気が済むまでいくらでも謝る。これでいいだろ」 自業自得とはいえ、思い描いていた未来図とは大幅にずれが生じた現状に、俺はかなり自棄になっていた。あれだけ構いたがった春名の顔も見たくなかった。余裕をみせて外堀を固めているうちに我慢できなくなり、自爆したと表現すれば分かりやすいだろうか。今は来客もあるし来られても困ると告げたにも関わらず、春名はあっけらかんと電話の向こうで言い切る。 「でももう、家の前まで来てるもん」 プツと通話が切れた。唖然とする俺を置き去りにしたまま、ピンポーンと間の抜けたドアチャイムが鳴り響いた。 しばらくして兄が顔を覗かせる。 「分かってると思うけど、お前に来客。……ったく、何ふてくされてんだよ。せっかく向こうから会いに来てるってのに」 複雑な表情を浮かべている俺に、呆れた様なため息をついた。 「何をしようとお前の自由だけど、あんまり学校で派手なことはするなよ」 「人のこと言えるのかよ」 「ま、言えないわな」 この兄は、高校在学中に当時付き合っていた彼女と妊娠騒ぎを起こし、両家と学校を巻き込んだ大騒動となったのだ。周囲の反対を押し切って結婚すると決めた兄は、高校卒業と同時に家を出た。あの頃は実家に寄り付きさえしなかったのに、最近は孫可愛さにウチの両親が頻繁に呼び寄せるようになったためか、こうしてしょっちゅう入り浸りやがる。 「プライドが高いのも結構だがな、たまには自分に素直になった方がいいと思うぞ」 まるで教師みたいに――いや、実際こいつは教師なのだが、偉そうな物言いにカチンときた。 「誰のせいで、こんなことになったと思ってんだ。元はといえば、あんたが…」 「やっぱり」 緊迫した空気の中、能天気な声が割り込んできた。 「沖島先生と英二って顔見知りだったんだ」 どこかとんちんかんなセリフを言いながら、春名はニコリと笑った。 「これで、ようやく謎がとけたよ」 「……あのな、春名君」 「はい?」 「顔見知りというよりも、俺たちは兄弟なんだが……もしかして知らなかったのかな?」 「今気がつきました。薄々そうじゃないかなと思って、ここに確かめに来たんですけど」 「あ、そう」 兄は一気に疲れたように息を吐いた。ため息をつきたくなるその気持ちは、痛いほどよく分かった。春名の鈍さとバカさ加減は、筋金入りなのだ。こいつの記憶力は興味のあることにしか働かないから、俺の名字なんて覚えていやしない。あとは当人同士でゆっくり話し合えと命令し、兄は階下へ戻っていった。 「それと英二。そこの春名君な、お前が見くびっている程、鈍くはないと思うぞ」 意味深な言葉を残して。 二人きりになった途端、春名は頬を膨らませた。 「どうして教えてくれなかったんだよ。そしたら俺だって……間違えなかったのに」 「言えるかよ」 お前は、俺と兄貴を間違えて恋してるんだ、なんて。たとえくだらないプライドだとしてもだ。どうしても外せない急ぎの用事のせいで、あの日、駅員に春名を任せたまま俺はその場を去った。名前くらい聞いておけば良かったと後悔したのは、次の電車が動き出したあとだった。 クラス替えの日、運命だと思ったのは俺の方だった。だが春名は、俺に気付かなかったばかりか、俺の名前すらどうでもよさそうに、運命の相手だと信じた兄貴に夢中で、その話ばかりしていた。そんな状態で真実など告げられるわけがないだろう。俺が可哀相すぎる。 「いつ気付いた?」 「あの日。原稿手伝ってもらった次の日、かな。英二、『大丈夫か』って声かけてくれただろ? その時の声が、俺が電車で気分悪くした時にかけてもらったものとそっくりだったんだ。……それでちょっと不思議に感じて、ずっとあの時のことを思い返してたんだ。決定かなと思ったのは、また別の日だけど」 あの日だよ、と俺が無理やりキスした日のことを、春名は少しばかり目元を染めながら告げた。 「沖島先生からは、コロンの匂いがしたんだ。それに違和感があって。あの日、俺を助けてくれた人からは、そんな匂いはしなかったこと思い出したんだ」 「たまたまその日つけてなかっただけかもしれないだろ」 「うん。そうかもしれないけど……でもずっと前からつけてるんでしょ? 英二なら知ってる筈だ」 「まあな」 確かに春名の言うとおりだった。だが、だからと言って真実を知っている俺と違い、これが春名があの日の男が俺だと確信する決定的な証拠になりはしない。それなら何故? 俺の疑問を読み取ったように、春名は唐突に言った。 「英二! あの日のこと、もう一回再現してみてよ」 ほら立って、とベッドに腰掛けている俺の腕を引っ張って無理やり立ち上げると、春名はぎゅっと俺の胸に抱きついた。驚愕に固まっている俺を、焦れたように促す。 「大丈夫かって、言ってみて」 言われたまま口にすると、春名は「合ってる」と嬉しそうに俺の肩口に顔を押し付ける。 「この匂いだよ。ずっと俺の側にいてくれて、もうすぐ駅員も来る、大丈夫だって励ましてくれたの。ずっと気付かなくてごめんね」 でもね、と春名は続けた。 「多分、英二だって分からなくても、俺はそのうち英二のことを好きになったと思う」 「え?」 「少女漫画を描きたいって言った俺のこと、偉いって言ってくれたろ? 親でさえ俺が漫画描いてるの、あんまりいい顔しないのに、あんな風に認めてくれたの英二だけだった。すごく嬉しくて。あの瞬間、俺の運命の人は沖島先生から英二に移ったんだ。……って、都合が良すぎるよね」 「いや…」 都合の良い夢を見ているのは俺の方だった。 「英二?」 不思議そうに俺の顔を見て目を瞬かせた春名が、背伸びをした。一瞬だけ触れて離れていった唇を見つめていると、照れたように笑う。 「これで信じてくれる?」 「ああ」 腕の中にいる確かな感触をしっかりと抱きしめた。この感触が俺のものになるのなら、ちっぽけなことに拘り続けていた自分のプライドなどいらないと思った。 「好きだ」 腕の中で僅かに身じろいだ春名は、うんと頷く。 「俺も」 そして、彼の名前のように幸せそうな笑顔を俺へと向けた。 END |