by 慶 さまBLUE ROSE BLUES











秋雨が静かに銀の線を描いて空から降って来る。

見上げた空はどんよりと鼠色。

ついこの間まで残暑がどうのって言ってばかりだった天気予報も、最近は秋雨前線や台風の話ばかりで気が重くなる。

こんなに雨が続いたら、あの、小さな黄金色の花なんか、簡単に散り落ちてしまうだろうに。

 

『お前に会えて、良かった』

 

あの人は、そう言って、雨の中、黄金色の花を背負って微笑んだ。

 

 
 

 
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俺はまだその頃は世間の酸いも甘いも知らないただのガキで、毎日電車とバスに揺られて大学に通い、気楽な学生生活を送っていた。

親の脛をかじって特に何の目的意識もなく選んだ大学で、特に将来も考えないで選んだ文学部国文学科で、近現代文学なんか専攻して、意味も分からないのに三島由紀夫なんかをナナメ読みに勉強してた。

大学も3年にもなると、そろそろ就職活動についてのガイダンスとかも始まって、互いに馬鹿やって毎晩遊び歩いてた仲間達も、ちょっと表情が変わって来たりする。

夏休みには企業の説明会も始まったりして、見よう見まねで吊るし売りのリクルートスーツに身を包んで、特に何の目的もなくどこぞのホールやなんかの企業説明会に通ったりした。

季節は、すっかり涼しくなった秋。

卒論の題材を決めて学生課に提出しないといけない面倒と、就職課で募集先のファイルを捲る面倒に疲れ切って、俺はすっかり気が滅入ってた。

同じように気楽に学生生活を送ってたゼミのダチが、ちゃんと就職先に志望やら目標を持ってた事に、かなりビビって凹んだり。

毎回ゼミのレポートを一緒にサボってた奴が、さっさと卒論で扱う題材を決めて、その作家の全集やら過去の文学界の発表レポートなんかを集めてるのを見て、無性にムカついた。

俺だけが、いまだにふらふらと校内を締まりのない顔で歩いているような気になって、どうしようもない孤独を感じていた。

そんな、気の重い秋を迎えてた頃。

 

 

俺は、あの人に出会った。

 

 

自宅からほんの数十メートルの所にある、小さな公園。

小さな砂場と鉄棒と、滑り台の遊具がぽつんと置かれているだけの、しみったれた公園に、あの人はぼんやりと立っていた。

大きな、深いグリーンの木の前で、僅かに頬に笑みを佩いて。

いつもの俺なら、多分、あの人の存在にさえ気付かずに自宅へ帰り着いていたと思う。

けれど、その日はゼミの教授から卒論の事でこってりと絞られ、俺はとことん凹んでいて、公園のベンチなんかでぼんやり俯いて溜め息なんか吐いちゃいたい気分だった。

だから、俺はその小さな公園で、たったひとり、ぼんやりと木を見つめているあの人に、意識が行った。

オレンジと濃紺がグラデーションで空を描くような時間帯に、公園でぼんやりする大人なんて、やっぱりちょっと特殊だと思ったから。

 

その横顔が、綺麗な稜線を描いて、とても綺麗に見えたから。

 

入口に貼られた鎖を跨いで公園に足を踏み入れて、俺は、あの人から少し距離をとって、砂場の柵に腰掛けた。

深いグリーンの木の名前は全然分からなかったが、あの人がなんだか嬉しそうに見つめているから、余程その木が好きなんだろうかと思いながら、背中を見つめていた。

公園にはもう子供の姿なんかなくて、ライトをつけた車やバイクが、時々公園の前の道を通り過ぎて行くだけ。

「もうすぐ、咲くんだよ」

不意にあの人が声を上げて、そしてゆっくりと俺の方を振り返った。

まともに見たあの人の顔は、憂いをたたえていて、優しげな笑みを浮かべてた。

「え……?」

突然話し掛けられて、俺は思わずぽかんと口を開けて間の抜けた返事を返した。

「金木犀。小さな蕾が沢山付いてる。ほんの微かだけど、もう香りもしているんだ」

あの人は微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと俺の方へ歩み寄って来て、そう説明してくれた。

「……金木犀?」

言われて、思い出す。

いつもこの季節になると、何処からともなく甘い香りがこの界隈を満たす事を。

普段はほとんど気にもならないただの庭木の癖に、秋の花の季節にだけ、やたらと自己主張する黄金色の花。

「昔からこの金木犀は見事だったから……なんだか懐かしくて久し振りに来てみたんだ」

あの人はそう言うと、俺の顔を見てにっこりと笑った。

「……?」

「昔ね、この向いのアパートに住んでたんだ。もう、7、8年くらい前になるかな。父親の転勤で引っ越したんだけど、最近、なんだか妙に懐かしくなってこの金木犀をまた見たくなって……」

はにかんだ笑顔を浮かべてそう言うと、あの人はジッと俺の顔を覗き込んで、そして、『あ』の形に唇を開けて固まった。

「もしかして、良ちゃん?」

不意に子供の頃のあだ名で呼ばれて、俺は思わずドキッとする。

「ほら、俺だよ。川合久志。いつも一緒に缶蹴りとかしたよな、この辺の子供同士でさ」

「あ」

今度は俺が口を開けたまま固まる番だった。

「久くんっ!?」

懐かしい悪戯っ子の顔を思い出して、俺は思わず叫んだ。

近所の、そう、今は綺麗なマンションに建て替えられてしまったアパートの、2階に住んでた川合さんちの久くん。

俺より3才年上の、この近所で一番のガキ大将。

真っ黒に日焼けしてて、駆けっこが誰よりも早かった。

缶蹴りでいつも最後まで上手に隠れてて、しょっちゅう鬼をやらされてた俺は、目の前で久くんに缶を蹴られていつも泣かされてた。

一瞬にして甦る、幼い頃の記憶の波に飲まれて、俺はまじまじと大人になった久くんの顔を見つめて、そうして暫く何も言えなかった。

「お前、全然変わってないな。ガキの時のまんま」

面白そうに笑って、久くんは俺の頭をポンポンと叩いた。

「わっ……ちょっと!」

久し振りの再会と遠慮のないスキンシップに驚いて、俺は照れと気恥ずかしさで思わず久くんの腕を払った。

「ははは、そういうトコも変わってない」

久くんはさして気にしていない風にそう言って、そして再び金木犀の木を振り返った。

「この金木犀がまだちゃんとここにあって、俺、嬉しかった」

その声が、どことなく寂しそうに聞こえたのは、俺の気のせいだったんだろうか?

「良ちゃんにも会えたしな」

俺を見つめて笑った顔は、昔のガキ大将の久くんの顔じゃなく、大人の男の、けど、妙に綺麗な陰のある笑顔だった。

 

 

 

再びその公園で久くんに出会ったのは、再会の日から3日後の事だった。

その日は午前中で大学が休講になり、レポートの山とゼミの課題のレジュメ作りに追われていた俺は、図書館で借りた資料を抱えて帰宅を急いでいた。

大学の図書館で片付けても良かったが、最近すっかり付き合いの悪くなったダチ連中に、今更必死で資料なんかに取り付いてる姿を見られたくなくて、少し面倒には思ったけれど自宅で格闘する事にしたのだ。

バックパックの底が抜け落ちそうな程に分厚い資料と、駅前のコンビニでとったコピーを抱えて公園の前に差し掛かった時に、俺の目は自然とあの金木犀の木に惹き付けられた。

そして、数日前と同じように佇む、何処か寂しげな背中を見つけて、俺はなんとなく胸がざわつくのを感じた。

「久くん」

3日前と同じように公園の入口のチェーンを跨ぎながら声を掛けると、久くんは優しい笑みを向けながら俺の方を振り返った。

俺の記憶に残っていた久くんの雰囲気とは全然違うその笑みに、俺はやはり陰を感じてしまう。

「なんだ、良ちゃん。大学サボったのか?」

意地悪そうに眉を上げてそういう久くんに、俺は違うよと首を振る。

「午後の講議が休講になったんだよ。家でレポートやろうと思って資料抱えて帰宅途中」

「へえ、凄いじゃん。ちゃんと大学生やってんだ」

俺の荷物を見て久くんは驚いたように笑う。

「つか、『久くん』てのやめてくれないか? 俺ももう良い年だし」

「じゃあ俺の事も『良ちゃん』はやめてくれよ。いつまでも泣き虫のガキじゃねぇもん」

クスクス笑う久くんに習って、俺もちょっと唇を尖らせて主張した。

「そうだな、……うん。じゃあ……良介。俺の事は久志様って呼ぶように」

ふざけて胸を反らせて偉そうに言うのに、俺はケタケタ笑って答えた。

「やだよ、誰だよ、久志様って! 久くんでいいじゃん。それか、俺も呼び捨てにしちゃおうか」

肩のバックパックを抱え直すようにしてそう言うと、久くんはにっこり笑って俺を見つめてた。

「どっちだっていいよ」

やけに優しそうなその瞳が気恥ずかしくて、俺は思わず目を逸らして俯いてしまった。

「咲き始めたよ、金木犀」

話が途切れた所で、不意に久くんが肩越しに金木犀の木を見上げながら言うのに、俺も視線を上げてみる。

「あ、ホントだ。だから今朝から甘ったるい匂いがしてたのか」

俺の言葉にニコニコ微笑みながら、久くんは嬉しそうに木に近付いて小さな花に、その形の良い鼻梁を添えた。

「こんなに小さな花なのに、なんて強烈で魅惑的な香りなんだろう」

小さく呟くその唇が、とても綺麗だなぁ……なんて思ったりして、俺は一瞬自分の思考に驚いた。

子供の頃とはすっかり違ってしまった、久くんの横顔に見蕩れていたなんて。

「明日か明後日になったらもっと凄い事になるな。きっと良介ン家の窓を開けたら、それこそ部屋中に甘い香りが流れ込んで来る」

深いグリーンの中に、蛍光オレンジの可憐な花。

その、この季節だけの魔法のような木の前に佇む久くんは、何処か不安げで、けど、静かに何かを秘めているように見えた。

「良介、レポートの中身、何?」

クン……と、もうひと嗅ぎしてから金木犀の木から離れて、久くんはコピーの束を指差しながら近付いて来る。

「あー、レポートは三島由紀夫」

「レポートは……? 他にもあんの?」

興味深そうに俺の手許を見つめて、久くんは俺と肩を組んだ。

甘い香りが僅かに香って来て、一瞬、目眩がしそうになった。

昔は、肩を組んだりなんてしょっちゅうしてたし、もっと激しく取っ組み合いになって泥団子みたいになって転げ回ってたのに、ただ、肩を組まれただけで頬が熱くなるのに、俺はなんだか自分が自分じゃなくなっていくような気がしてた。

「……あ、そ、その……ゼミの、レジュメ、作んないとダメで……」

俺の肩を抱いたまま歩き出そうとする久くんに従って、俺はちょっと窮屈に感じながらも一緒に歩き出した。

「……手伝ってやろうか?」

「ええっ?!」

予想もしなかった申し出に、俺は派手に驚きの声を上げてしまった。

「俺も大学で近現代文学専攻してたんだ。卒論は中原中也で、詩文だけどな。しかもギリギリの点数でお情けで卒業した」

「それじゃあ、アテに出来ないじゃン」

クスクス笑いながらそう言うと、久くんはほんの少し驚いたように、けど、すぐにあの綺麗な笑顔を浮かべて笑った。

「馬鹿にすんな。お前なんかよりはまだなんぼかマシだよ」

甘い香りのする久くんと肩を並べながら家に帰って、パートで母親が留守にしているのを良い事に、俺は冷蔵庫にあったケーキを勝手に久くんに出して、そして、レポートとレジュメ作りを手伝って貰った。

あんまり、手伝いの成果はなかったけど。

ただ、最近はすっかりおざなりになっていた、文学に対しての気持ちが、ほんのちょっとだけ上向いた。

コピーや資料の本を久くんと読みながら、色々な近代文学の作品について話し合った。

それは、大学のダチやゼミの連中なんかと話すよりも、うんと充実した内容で、そうして、酷く楽しかった。

夕方になって、久くんは一緒に何処かで飯を食おうって言う俺の誘いを断わって、さっさと玄関で手を振って帰っていってしまった。

俺はなんだか昔に戻ったみたいに楽しかった時間が急に静かになって、やたらと急激に現実に引き戻されたようで酷く寂しかった。

 

その夜。俺は思い出した。

 

あれは俺が中学に上がるか上がらないか、その辺の頃。

すっかり俺から見たら大人に成長してしまった高校生の久くんが、あの公園の金木犀の木の下で、本を読んでいるのに出会った。

本は、確か……宮沢賢治選集。

どこか大人の雰囲気を纏って、もう、缶蹴りも一緒にはしなくなっていて、近所で顔を会わすだけになってしまっていた久くんを久し振りに公園で見掛けて、俺は嬉しくなって駆け寄った。

金木犀の、甘い香りのする花の下で、小さくて古いベンチに腰掛けた久くんの隣に座って、その手の中にある本に視線を落とした。

久くんはその中から、確か、『春と修羅』を読んで聞かせてくれたんだった。

そう、……そうだ。

俺が何となく文学部国文科の大学に進学したのも、近現代文学を専攻したのも、あの日の記憶が心の奥に残っていたからだ。

あの日から、俺は国語の教科書を見る目が変わったし、それまでマンガしか読んだ事がなかったのに、本屋で色々な作家の小説や詩集を買った。

近代から現代の辺りの作家の、リズミカルな文章や言葉の彩りが妙に気に入って、流行のベストセラーなんかほとんど読まなかった。

そうだ。

俺が今、こうやっているのも、久くんの影響だったんだ。

そうして、再び思い起こす。

久くんと金木犀の木の下で一緒に本を読んだ日から、妙に久くんがよそよそしくなったのを。

顔を会わせれば挨拶もするし、本を貸してと言えば快く貸してくれた。

けれど、あの日と同じように、一緒に並んで肩を寄せ合って、1冊の本を覗き込む事は2度となかった。

そうこうするうちに、久くんは引っ越してしまったんだ。

そして、俺の記憶から、ガキ大将だった久くんも、静かに本を読んで聞かせてくれた久くんも、いつの間にか消え掛かってしまっていた。

 

 

どうして、今頃、この街にやって来たんだろう。

懐かしくて……って、言っていた。

 

子供の頃の印象とすっかり変わってしまって、ガキ大将だった面影なんかすっかりなくなって、大人の色気なんか身に付けて、そうして、少し寂しそうで。

 

ベッドに深く潜り込んで、俺は一緒にレポートをまとめてくれた、久くんの横顔を思い出す。

あの日と同じ、キラキラした目で、資料の作品の文字を追っていた。

 

俺はやっぱり、その横顔を綺麗だなぁって、見つめていたんだ。

 

 

 

 

それから数日後。

毎朝、金木犀の甘い香りに包まれて数日を過ごした。

その日は、朝からどんより曇り空で。

ニュースは大型の台風が日本列島に近付いて来ている事を伝えていた。

天気予報は曇りのち雨。

「金木犀、……散っちゃうな」

公園の前を通って駅まで行くのに、ふと、黄金色の花をつけた大木を見上げて俺は呟いた。

レポートを手伝って貰った日から、久くんとは会っていない。

大学の講議で遅くなる事もあったし、別に約束をしていた訳じゃないから、会えないのも当然だと思っていた。

ただ、あの、憂いを含んだ横顔だけが、どうしても頭の奥に染み付いて、気になって仕方なかった。

大学の講議を4コマ受けて、ゼミの連中とちょっと話をしたりしていたら、外はすっかりザーザー降りの大雨だった。

あんまり酷くならないうちに帰ろうと言う事になって、三々五々、ゼミの教室を出ていく。

俺も、借りていた資料を図書館に返して、そして、激しく傘を叩く雨を気にしながら帰宅の途についた。

バスに揺られている間も、電車に乗っている間も、どう言う訳か気になるのは、あの公園の金木犀で。

そして、久くんの、何か俺に告げたそうな、表情で。

最寄り駅に着いて、より一層激しくなった雨に舌を打ちながら、俺はバックパックを抱え込んで急いで家への道を駆け出した。

 

ジーンズの足元はもう、とんでもない程にドロドロで、差していた傘もほとんど役に立たない程の大雨に、あの公園の近くまで帰って来た時には、俺はすっかり濡れ鼠と化していた。

急いで帰ろう。

そう思って足を早めた瞬間。

薄暗い公園の、そこだけ妙に明るい黄金色の花の木の下に、俺は人影を見つけて思わず立ち止まってしまった。

 

傘も差さないで、小さなベンチに肩を落として座り、雨に激しく叩かれて地面に落ちていく、黄金色の小さな花を見つめていた。

「久くん……?」

雨の音で俺の呟いた声なんか聞こえなかった筈なのに、久くんは、ゆっくりと顔を上げると、俺の姿に一瞬驚いたように目を見開いて、そして、泣き出しそうに、破顔した。

 

 

 

 

「なんで、こんな雨の中、あんなトコで座ってんだよ」

頑なとして俺の家に来るのを拒んだ久くんを半ば強引に傘の下に引っ張り込む。

「……」

久くんは俯いたまま髪から雫を垂らしながら、一言も口を開かない。

「兎に角、そのままじゃ風邪ひいちゃうし、今すぐ俺ん家、行こう? 風呂沸かすからさ、な?」

苛々した口調でそう言うと、久くんは何か言いたげに口を開いたけど、結局溜め息を漏らしただけで、静かに首を左右に振った。

「なんで? 風邪ひいたらどうすんだよ!」

思わず声を荒げた俺に、久くんは困ったように微笑んだ。

すっかり冷たくなって紫色に変色した唇が、小さく震えるのを見つめながら、俺は舌を打つ。

「何かあったの? こんなトコでずぶ濡れになってたら、フツー誰だって心配するだろ?」

「……悪ぃ」

なるべく声を落ち着かせてそう言うと、久くんは俯いてそう言ったきり、また黙り込む。

俺はもうどうすればいいのか分からなくなって、お互いに身体を半分雨に打たれながら、暫くそのまま立ち竦んでた。

雨の音はさーさーと変わる事なく続いていて、それは徐々に強い音に変わりつつある。

湿った空気の中、それでも胸焼けがする程に香って来る金木犀の香りが、何故か余計に俺の胸を締め付けた。

「なんだよ……久くん。何があったか、俺には言ってくんねぇんだ? 俺、もうあの頃のガキじゃねぇよ?」

ハンカチなんて上品なものは持ち合わせていないから、俺は仕方なく自分の手ですっかり濡れそぼった久くんの前髪を拭いながらそう言った。

瞬間、ハッとして久くんが顔を上げて、困ったように俺の顔を見つめる。

「あ……ごめん。びしょ濡れだったから……つい」

久くんの反応に思わずたじろいで、俺は辿々しく言い訳した。

久くんは再び小さく首を左右に振って、また俯く。

「あの、さ……。確かに久くんから見たら俺なんかまだまだガキだと思うよ。自分の事だってまだ良く分かってねぇくらいだし……。けどさ……聞いてあげるくらいは出来ると思うし、話すだけでも気分が軽くなるかもしんねぇだろ?」

実際、俺は誰かの相談にちゃんとしたアドバイスを与えてやれるような事は出来なかったけど、けど、今は本当に久くんの事が心配でなんとかしてやりたいと思ってた。

「良介……」

今にも掠れてしまいそうな声で久くんが呟いたのに、俺は出来るだけ柔らかい笑顔で応える。

久くんは暫く黙ったまま視線だけをゆらゆらと彷徨わせて、そして、消え入りそうな声で吐き出すように声を振り絞った。

 

「俺は……お前が思ってくれてるような、出来た人間じゃァないんだ……浅ましくて、みっともなくて……諦めの悪い、惨めな奴なんだ……」

 

久くんの言葉に、俺は疑問符を思い浮かべながら、それでもグッと歯を食いしばって、久くんに先を促した。

「久くんがどんな奴だかなんて、そんなのは俺が決める事だよ。話して楽になるなら俺に聞かせてくれよ。……俺、ちゃんと聞くからさ……」

片手で傘を持って、反対側の手で静かに久くんの肩を叩いた。

その肩は、やっぱり雨に濡れた所為で酷く冷たくて、そして、小刻みにフルフルと震えていた。

 

 

 

 

 

「ずっと大学に残っててさ、教授の下で論文書いたり資料研究したりしてたんだけど……」

頑なに俺の家へ行く事を拒む久くんと、あまり雨に打たれない滑り台の下で肩を並べながら話を聞いた。

傘は差したままで。

「先月から新しい助教授がやって来てさ……、俺の付いてる教授の教え子だって人なんだけど、その人と色々、俺……合わなくて……」

俯いてそのまま黙り込んで、久くんは何度も溜め息を漏らした。

俺は辛抱強く久くんが話しくれるのを待って、そして、途切れ途切れに話すその言葉を、一生懸命繋ぎ合わせて理解しようとした。

久くんの話はこうだった。

良くある学内での教授や助教授間での派閥争い。

久くんのトコの教授を抱き込もうって言う目論見で、その新しい助教授は送り込まれた、所謂工作員だった。

久くんのトコの教授は研究さえ出来れば派閥とか権力とかには無頓着な人らしくて、けれどその業績等から他の教授や講師からの信頼も厚くて、ひっそりとした派閥のような存在の中心にいるような人だった。

その教授を抱き込む為に、新しい助教授は久くんに近付いた。

時には虐め、時には気持ちが悪い程に褒め讃え、そして、教授の弱味を見つけだそうと必死だった。

「俺はさ、アイツの魂胆には気付いてたから、そんな教授の身がヤバくなるようなボロは出さなかった……けどさ、……まさか、俺自身の事まで調べ上げられたり、妙な噂流されたりして、それで脅迫されるような事になるなんて、……思ってもいなかったんだ……」

久くんは自嘲的な笑みを浮かべて、そして、スンと鼻を啜り上げた。

また、暫く雨の音だけが流れて、俺は久くんが口を開くのを待つ。

雨は一段と酷くなり、滑り台の斜面を叩く音が激しく耳障りに思えた。

久くんが何度も溜め息を吐くのが、俺には酷く切ない。

「俺さ……フツーじゃないんだよね」

いきなり言われて、俺は思わずキョトンとした顔を久くんに向ける。

久くんはチラッと横目で俺を見て、そしてまた溜め息を吐いた。

「……高校に入った頃にはなんとなく自分がオカシイって事に気付いてたんだ」

まるで話の流れに付いて行けなくて、俺は首を傾げるばかりだった。

「文学少年ぶって読書ばっかりしてたのも、自分が変だって気付いて、それを誰かに気付かれるのが怖くて、なるべく他人と接触しないで済むようにって……引き蘢りだな、……うん」

突然の告白は、酷く俺を動揺させた。

ガキ大将だった久くん。

強くて、わんぱくで、怖いものなんて何もないみたいに見えたのに。

「……俺は、……俺はさ、……お前に本を見せたりしていいお兄ちゃんぶってる腹の中で……っ」

久くんが苦しそうに言葉を区切ったから、俺は思わず久くんの顔を覗き込む。

眉間に皺を寄せて、久くんは泣き出しそうな顔をしてた。

「久くん……」

「俺、お前に触りたいって思ってたんだ」

一気に、流れに任せて吐き出すようにそう言って、久くんはしゃがみ込んでしまった。

「え……?」

その言葉の意味が理解出来なくて、俺はしゃがみ込んで膝を抱いている久くんの頭を見つめる。

「……久くん?」

「気持ち悪いだろ? まだお前なんて子供でさ。俺も似たようなモンだったけど、……今思えば、俺はあの頃もう、お前に欲情してたんだ」

雨はザーザーと降り続き、湿った空気には金木犀の甘い香り。

滑り台も、砂場も、あの頃と何も変わらない。

変わったのは……

「そのテの店で飲んでる所を写真に撮られて脅された。学内にバラすぞって……教授ともそういう関係なんだろうって」

久くんは吐き出すように続ける。

泣いているように見えるのは、雨の雫なんだろうか?

「俺1人の問題だったらどうでも良かった。好きにしろって取り合わないさ。……けど、それで教授の事を兎や角言われるのは、……それだけはダメなんだ、我慢ならないし、避けなきゃいけない」

震える肩や唇をジッと見つめて、やっぱり久くんは泣いているんだと俺は思った。

「俺が白い目で見られるのは別に構いやしない。凄く尊敬してる恩師なんだ。けど、俺の事で教授まで変に中傷されたり誤解されるのは……そんなのはっ……」

まるで昔の小さかった頃のように身体を丸めて泣く久くんは、俺の知ってる久くんじゃないみたいだった。

けど……

「だから、……迷惑掛ける前に、大学辞めて、……引っ越して……」

知らなかった。

久くんの口から出た大学名は、俺の通ってる大学の隣の区にある大学だった。

「もう……こっちにはいられないだろうから、……実家に戻らなきゃいけないなって……そしたら……」

小さな子供の頃の久くんは、グスンと鼻を鳴らして、そして、唇を噛み締めて俺をゆっくりと見上げた。

「良介……お前に、会いたくなったんだ……」

「久くん……」

雨は沈黙を縫うように降り続く。

金木犀は、あの頃の記憶を甦らせるように匂いたつ。

そんなに降るなよ。

綺麗な黄金色の小さな花が、ポツポツと雨に打たれて地面に落ちる。

「……もう、思い残す事は、ないよ」

ゆっくりと立ち上がって、久くんは傘と滑り台の下から足を踏み出した。

雨の中、その足取りは思いのほかしっかりとしていて。

大きな金木犀の木の下。

散った小さな花弁が絨毯のように地面を覆う。

俺に背を向けて、久くんはその香る木を見上げる。

「……ひ、久く……」

なんだかこのまま、本当に久くんが消えてしまうんじゃないかって思えて、俺は思わず声を上げた。

ゆっくりと振り返る、寂しい、微笑み。

雨の音は消え去り、噎せ返るような甘い香りだけがこの空間を包み込む。

 

「お前に会えて、良かった」

 

濡れた前髪も、青白くなった頬を伝う涙も、震える唇も、どれひとつ、俺の知らないものばっかりで……

「もう、お前の前にも現われない。お前にもいつ迷惑掛けるか分かんねぇし……」

「……なんで? 折角、また会えたのに。何もそんな逃げるみたいにいなくならなくてもいいじゃん。大学辞めたって、こっちで仕事探して……っ」

俺はそう言いながら、なんでこんなにも自分が必死なのか分からなかった。

ただ、このまま久くんと会えなくなってしまったら、きっと後悔するような気がしていた。

「良介、お前、俺の話聞いてたか? お前の傍になんかいられる訳がないだろ」

困ったようにそう言う久くんは、もう、すっかり諦め顔で。

すべてを投げ出したようなその表情に、俺はえも言われない怒りを感じた。

「だって、……なんだよ! なんで俺の傍にいられないんだよ。俺がどっか遠くへ行けって言ったか? 久し振りに会って、……俺、スゲェ懐かしくて、嬉しかったのに……」

腹がたって、そして、痛い。

胸が、痛い。

「俺が近現代専攻したのだって、絶対に久くんの所為なんだからな! 人の将来勝手に左右しといて、自分はとっとと尻尾巻いて逃げんのかよ!」

俺は聞き分けの悪いガキみたいにただ喚き散らした。

「責任取れよっ!」

そう叫んで、ギッと睨んだ久くんの顔は、何故か真っ赤だった。

雨の音が再び流れ出す。

甘い香りは一層、匂いたつ。

黄金色の絨毯の上に立つ人は、呆然としたまま、泣き笑いの顔をくしゃりと歪める。

「お前、俺の事、口説いてンの?」

久くんが、またグスンと鼻を啜った。

「なんだっていいだろ! 俺は久くんに会えて良かったって今でも思ってる。こうやってまた会えて、本当に良かったって思ってる。気持ち悪いとかそんなの関係ないだろ。俺は……、俺は……」

そこで、詰まってしまった。

今、自分が何を言おうとしたのか。

我に帰る。

久くんが、泣き出しそうな顔で俺を見つめてる。

黄金色の木の下で、黄金色の絨毯を踏みしめて。

「なんだよ……言えよ、良介」

狡い。さっきまで泣き喚いてた癖に。

小さく舌を打って、俺は足を踏み出す。

甘い香りに包まれた、久くんに向って。

黄金色の絨毯を一歩一歩、踏みしめながら。

 

そんなに降るなよ、このクソ雨。

金木犀が、散っちまうだろ。

傘を、静かに差し出して、けれど、頬は強張ってきっと怒ったような顔をしているだろう。

昔のガキ大将は、なんだか大人の色気なんか身につけて。

「俺、久くんにまた会えて良かって、本当に思ってる……。もう、勝手にどっか行ったりすんなよ」

甘ったるい香りが鼻をくすぐる。

冷たい手が、傘を持った手に添えられた。

 

 

「俺も、お前に会えて、良かった」







END   






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