プロローグ


 


 綺麗な色の、空が見える。

四角い窓枠の形に切り取られた、夕刻の空。まだ上空には淡い水色が残っており、

地上に近い部分で桃色に似た茜色と反発することなく溶け合っている。薄く広がっ

た雲がところどころに散らばり、柔らかいグラデーションを更に不思議な色に染め
              おうさか
上げていた。逢坂の心情とは全く関係なく、外は穏やかに晴れ上がっている。

 彼は向かい側の席に視線を戻し、それから小さく頷いた。

「……ん。判った」
                                                                            そのべ
 そのままテーブルに視線を落とした逢坂を見て、向かいに座っていた薗部は僅

かに口元を動かしたが、結局何も言わずコーヒーを飲み干し、それから静かに立

ち上がった。

「時間?」

「ああ。そろそろ出ないと」

「そっか」

 逢坂は椅子に座ったまま、横に立ったスーツ姿の男を見上げた。そう言えば見た

ことのないネクタイをしている、と今頃気が付いた。

 じっと見つめる逢坂に、薗部が何を思ったのかは判らない。もしかして、何も思わ

なかったかもしれない。

 薗部は僅かに瞳を細め、

「…じゃあ、元気でな」

 と、呟くように言った。

「……うん。そっちも」

 逢坂はそっと微笑み返したが、席を立とうとはしなかった。薗部も特にそれ以上

求めはせず、そのままゆっくりと店内を出て行く。

遠ざかっていく背中を窓越しに見送りながら、逢坂は微かな吐息を吐いた。

 裏通りにあるこの小ぢんまりとしたカフェは逢坂のお気に入りで、家から歩いて

15分の距離ということもあり、散歩と気分転換を兼ねて、よく訪れる場所でもあっ

た。自宅ではなくこの場所を選んだのは、人目があった方がかえって落ち着いて

話せるだろうと思ったからだったが、そんな必要もなかったかもしれない。意外と

冷静に対応出来たことに、逢坂は自分でも驚いていた。

 既に答が出ていたことの確認のようなものだったから、それも当然か。

 逢坂は冷めたコーヒーに手を伸ばしかけたが、視界に入った銀色の輪に気付き、

ふと動きを止めた。薬指に、繊細な装飾が施された華奢なリングが嵌っている。

「………」

 逢坂はそのままの体制でしばらく自分の指を見つめていたが、やがて徐にリング

を外し、テーブルの上に置いた。そしてもう一度、小さく溜息を吐く。

 出会ってから四年。恋人になって三年。

 終わる時というのは意外と呆気ないものだなと、白いカップソーサーの陰で鈍く

光る指輪を眺めながら、逢坂はまるで人事のように思った。








                                   おがた
 定刻通りにバイト先へ出勤した尾形は、何気なく店内を見回し、ふと窓際の人影

に目を留めた。時々見かける常連客だったが、この時間帯に会うのは初めてであ

る。加えて、一人きりではないことも、尾形を少々驚かせた。いつも午前中かお昼

過ぎに姿を見掛ける彼は、誰かを伴なってこの店に現れたことはなかったのである。

 友人の紹介で始めたウエイターのアルバイトだったが、思ったより長く続けられ

そうで、尾形は密かに安堵していた。愛想が良いとは言い難い自分があまり客商

売に向いているとは思えず、すぐに辞める羽目になっては、店にも友人にも申し訳

ないと思っていたのである。しかし始めてみると決まった台詞以外を喋ることはあ

まりなく、必要以上に元気の良い挨拶を強要されることもない。「礼儀正しくしてい

れば問題ない」という店長の方針は、尾形にとって非常に有難いものであった。

 彼の存在に気付いたのはつい最近だ。何となく顔は覚えていたのだが、自分が

早番の時にしか見掛けないことに気付いて、少し不思議に思ったのがきっかけで

ある。早番の時と言えば、開店から、ランチが終わって一息つくまでの時間帯であ

る。暇な大学生である自分はともかく、どう見ても二十代半ばの彼にとっては、働

いている時間帯ではないかと思ったのだ。勿論仕事中にお茶を飲みに寄る客も多

いが、小奇麗ではあるものの大抵ラフな格好で来る彼が、営業の途中で休憩をし

ているサラリーマンだとはとても思えない。線が細く、どことなく品の良い雰囲気を

醸し出すその風貌は夜の商売人にも見えず、何をしている人なのか、尾形は少々

気になっていたのである。

 彼の連れは、スーツ姿の男性だった。おそらく彼と同年代であろう。こちらはどう

見ても硬い雰囲気のサラリーマンである。しかし尾形が新たに入って来た客の注

文をとっている間に、スーツの男性だけが先に帰ってしまったらしい。窓際の席に

はいつものように一人で座る彼の姿があったが、さほど時間を置かずに彼自身も

席を立った。

 レジには既に別のバイトが立っていたので、尾形はトレイを持って、先程まで彼

が座っていた席へと歩み寄った。何気なく窓の外を見やると、ちょうど店から出た

彼の背中が目に入る。駅とは反対の方向、住宅街の方へ歩き出した彼を見て、や

はりこの近くに住んでいる人なんだろうかとぼんやり考えていた時である。

「……?」

 尾形は、カップソーサーの蔭に小さな銀色のものが置いてあることに気が付いた。

 思わず摘み上げたそれは、凝ったデザインの、細くて綺麗な指輪だった。









 外へ出ると、空は既に茜色から藍色へと姿を変えつつあった。まだ夜というより夕

方という時刻だったが、空気も随分冷えてきている。逢坂は上着の襟を正し、心持

ち足を速めた。

 家に戻ったら、仕事の続きをしなくてはならない。

 逢坂は翻訳を中心とした文筆業をしており、自宅が仕事場を兼ねているのであ

る。職場に通う為毎朝早起きをする必要はないが、それは自身でしっかり時間の

管理をしなければならないということであり、例え気分が沈んでいる日でも、ノルマ

は当然果たさなければならなかった。

 ふいに吹き抜けた冷たい風に、逢坂が思わず眉を顰めた時。

「あ、あの…お客様!」

 ふいに後ろから聞こえた声が、自分に向けられたものだと思ったわけではなか

った。ただ、人気のない静かな道に不釣合いな大きな声に驚いて、思わず振り向

いただけである。

 逢坂の目に映ったのは、やたらと寒そうな格好のまま、こちらに駆け寄って来る

一人の青年だった。薄手の白いシャツに黒のパンツ。腰から下を覆った同じ黒色

のエプロンが、風を孕んで翻っている。

 その瞳はまっすぐ逢坂へ向けられており、他に通行人も見当たらない以上、声を

掛けられているのはどうやら自分のようである。逢坂は足を止め、彫りの深い青年

の顔を見返した。

「あ、すいません、あの…」

 目の前に立った青年は、僅かに息を切らしながら、逢坂に向かって右手を突き

出した。

「忘れ物です」

「え」

 青年はきょとんとしている逢坂の手に、小さな指輪を乗せた。

 掌の上でころんと転がったそれを見て逢坂は僅かに眉を顰め、それから目の前

に立つ彼が先程の店のウエイターだということに気が付いた。顔はぼんやりとしか

記憶にないが、そのスタンドカラーの制服には見覚えがある。

 わざわざ追い掛けて来たのか。

 逢坂は苦笑を零しながら、自分よりも少し背の高い相手を見上げて言った。

「ゴメン、これいらないんだ」

「え…?」

「捨てといてくれないかな」

 自分のものではないと言えば良かったかもしれない、と逢坂は少し後悔した。明

らかに高価そうなそれを突き返されそうになって、ウエイターは困惑したように、腕

を宙に浮かせたまま固まっている。

 実際、尾形は困惑していた。

 忘れ物に気付いて慌てて追い掛けて来たものの、指輪の所有者であるこのお客

様は、いらないから捨てろと言いながら、それを尾形に渡そうとしているのである。

しかしその指輪は自分が持っているような安物とは違い、造りも値段も随分立派で

あろうことが見て取れる品物だった。いくら所有者の意思とはいえ、そのままゴミ箱

に放り込むのは躊躇われる。

 しかし尾形がそう思うのだから、本人はもっとそう思っているのかもしれない。もし

かしてこの人は、自分では捨てることの出来ない指輪を故意に置いて来たのだろう

かと、尾形はふと考えた。

 指輪を捨てる、という行為。

 単純だが、尾形には恋愛絡みの発想しか浮かばない。だとすれば、理由はひと

つである。

 明らかに年下のウエイターに見透かされていることも知らず、逢坂は再び指輪を

相手に押し付ける方法を考えていた。素直に受け取ってくれる気配がないので、

強硬手段に訴えることにする。

「じゃあ、君にあげるよ」

「え、わ、ちょっ…」

 にっこりと微笑んだ逢坂に思わず目を奪われかけたのも束の間、尾形は些か情

けない声を上げて後退った。

 逢坂がいきなり尾形の手を捕まえて、その指に強引に指輪を嵌めたからである。

 勿論尾形は慌ててそれを返そうとしたのだが、無理矢理嵌められたリングは彼の

人差し指のサイズに抗議するように関節の部分で止まっており、そこから動こうと

してくれない。

 懸命に指輪を引っ張る尾形の姿を見て、逢坂は些か不安気にその手元を覗き

込んだ。

「え、ゴメン。抜けなくなっちゃった?」

 確かにきついのを無理に押し込んでしまった感触はあったが、別にそんな意地

悪をするつもりではなかった。心配そうな相手を見て、逆に何だか拍子抜けしてし

まい、尾形は小さく息を吐く。

「……いやまあ、入ったんだから抜けるとは思いますけどね」

 とりあえず引っ張るのをやめて、尾形は中途半端な位置で止まっているその指

輪を見た。無骨な尾形の指に、繊細なデザインのリング。どう見ても浮いている。

 尾形は思わず呟いた。

「……似合わねー…」

 その呟きに逢坂は思わず小さな笑いを漏らした。

「笑いごとじゃないですよ」

「そうだよね、ゴメンゴメン」

 緩んだ口元を締めようとして、逢坂はふと思った。

 では自分はどうだったのだろう?

 自分の指にあのリングはしっくりと嵌っていたのだろうか。

 渡された時の情景ははっきりと思い浮かべることが出来るのに、受け取った時の

感情が一緒に蘇らないのが、何だか不思議だった。既に嵌める理由も資格もなく

なっている銀のリングを今自分の指に戻したところで、違和感なく収まるとはとて

も思えない。

 では一体いつから似合わなくなっていたのか。そもそも似合っていた時があった

のか。

 薗部はどう思っていたのだろう?別れ話をする為に来た場所へ、指輪を付けて

現れた自分を。どうしてこんなものを付けて来てしまったのか、逢坂は自分でも

自分の行動が理解出来なかった。

 否、したくなかっただけなのかもしれない。

 ふいに瞳を伏せ黙り込んだ逢坂を見て、尾形は目を見開いた。

 逢坂の瞳から零れ落ちた涙に気付いたからである。

 驚いたのは逢坂自身も同じで、彼は茫然とした面持ちでゆっくりと頬を拭うと、濡

れた自分の指先を見やって、僅かに頬を赤らめた。

「……ごめん」

 何に謝っているか自分でも判然としなかったが、相手が気まずく思っているのは

間違いないだろう。わざわざ忘れ物を届ける為追って来たのに、それを無理矢理

突き返された挙句、突然相手が泣き出してしまったのである。不審がられて当然

だ。

 だが謝罪の言葉に尾形は首を振り、ある意味逢坂のそれ以上に、判らない台詞を

吐いた。

「あ、いえ。勿体ないんで、泣いて下さい」

「……は…?」

 思わず顔を上げた逢坂に、尾形はいたって真面目な顔で続ける。

「泣くほど心が動かされることなんて、そうないから。泣いとかないと、勿体ない

です」

 逢坂は目を見開いて尾形を見た。

 言われた言葉を頭の中で三回程反芻し、瞳を潤ませたまま、ぽつりと呟く。

「……君、変わってるね」

 ぽかんとした顔で返された尾形は微かに頬を染め、照れたように頭を掻いた。

「え、俺はそうなんですけど…ヘンですか」

 人より感動し難いタチだからかな、などと呟いている尾形を見て、逢坂は小さく

笑みを零した。

 泣かないと勿体ないとは思わないが、心を動かされている自分を否定する必要も

ないと気が付いたのだ。向こうの気持ちが既に自分にはないことが判っていても、

やはり別れたくはなかった。けれど未練があることを認めるのが嫌で、自分の気持

ちと素直に向き合おうとしていなかったのだ。

 外聞を捨てて縋り付けば良かったと思っている訳ではない。けれど冷めている

ふりをして、優しい思い出も、自分の中にあった暖かい気持ちも、全てを忘れてし

まうなんて、それこそ―――勿体ない。

 逢坂は目尻に残っていた涙を拭うと、微かに笑みを浮かべて言った。

「俺は逆に、泣きすぎると勿体ないような気がするんだよね。だから今ので充分」

 それを聞いて口を開きかけた尾形を遮るように、逢坂は小さく首を振った。そして

再び尾形の手へと視線を落とす。

「あの……それやっぱり、自分で捨てるから」

 尾形は同じように指輪を見て、それから逢坂の顔を見た。逢坂は目を伏せたまま、

小さな声で付け足した。

「…でも、ちょっとだけ、預かっといてくれる?」

 その言葉に、尾形は微笑んで頷いた。

「はい。じゃあそれまでに抜いときます」

「あ、そっか。ゴメンね」

 二人は中途半端な位置に嵌っている指輪を見て笑い合い、その笑顔のままふと

視線を合わせた。しかし何故かその瞬間、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまい、

二人の頬が同時に染まる。

 思わず目を逸らしてしまった逢坂は、理由の判らない照れをごまかすように口を

開いた。

「えっと、じゃ、またね」

「ハイ、あの、お待ちしてます」

 同じように照れくさそうな顔で慌てて頭を下げた尾形に、逢坂はくるりと背を向けた

が、すぐにまた振り向いた。

 顔を上げた相手ともう一度視線を合わせ、小さく呟く。

「……ありがとう」

 柔らかい笑みを向けられ、尾形も同じように笑顔を返す。

 逢坂は今度こそ自分が向かうべき方向へと、ゆっくり体を向けた。辺りは既に夜の

色に染められていたが、きりりと冷たい空気がかえって心地良かった。

 薄く光る半円形の月に向かって、逢坂はどこか晴れ晴れとした気持ちで、小さく

右足を踏み出した。










FIN.


 

 

TOP

 






 

 

 


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理