初 恋 症 例   




 例えば、挨拶をしたとする。
「おはよう」
 どうということのない、ごく普通の朝の挨拶だ。だから勿論、それへ対する返答も、ごく普通のものでいい。少なくとも棚橋真治は、特別大仰な挨拶の言葉を望んでいる訳ではなかった。
「………おはよ」
 故に、相手のこの返答内容に問題はない。実際、毎回返事は返ってくるのだし、それだけでも良しとするべきなのかもしれない。
 彼がゆっくりと身を起こしたのを確認して、棚橋はベッドから立ち上がった。カーテンを引き、眩しいほどの陽射しを部屋の中へ注ぎ入れる。寝起きの体がほんのりと暖かな空気に包まれたような気がして、棚橋の口元は自然と綻んだ。
「すげーいい天気」
 棚橋の呟きに、返答はなかった。
 尤も何か返事を期待しての台詞ではなかったので、棚橋もその点は気にしていない。
 しかし肩越しに部屋の中を振り向くと、不機嫌そうに眉を顰めている人物が目に入る。ベッドに腰掛けたまま黙って床に視線を落としている同居人を見て、棚橋はこっそりと溜息を吐いた。
 同じ部屋で生活するようになって二週間以上経つが、彼が不機嫌そうではない顔をしているところを、棚橋は未だ見たことがない。
 彼――藍沢優也は、挨拶を返してはくれても笑顔を返してくれたことは一度もなく、この春進学したばかりの棚橋は、早くも高校生活最初の壁に突き当たっていたのだった。



「……あっ!実はものすごい低血圧とか?」
「いや、ムリヤリ前向き思考にならんでも」
「大体あいつがあーゆー顔してるのは朝に限ったことじゃないだろ」
「…そうでした…」
 棚橋は力なく肩を落とし、賑々しい昼休みの教室内をぼんやり見渡した。
 棚橋が入学した高校は、一応都内にあるにも関わらず、今時珍しい全寮制の男子校である。体育科・工業機器科等いくつかの学科が併設されているが、普通科がないのが特徴的だ。専門課程を学べる上住む所も確保されているということで、地方からの受験者も多い。実際、棚橋自身も地方出身者である。
 敷地内に建てられている学生寮は全て二人部屋で、それぞれ同じ科の生徒とランダムに組まされる。棚橋が在籍している国際交流科は二クラスしかないせいか、同じクラスの生徒同士で同室になっているケースが多かった。
棚橋と藍沢も同じクラスなのだが、そのことが二人の状況に良い影響を与えている様子は、今のところない。他の生徒に対しても藍沢が同じ調子だということが分かるのが、救いといえば救いである。
 同室の生徒が打ち解けてくれる気配がないと沈む棚橋に、周りにいたクラスメイト達はちょっと顔を見合わせて、肩を竦めた。
「ま、普通に考えて人見知りとか」
「人嫌いとか」
「お前が嫌いとか」
「…いや、あのさ…」
 慰められているのか、からかわれているのか、よく判らない。
 しかし寝起きを共にしている藍沢とは、このような軽口も叩き合えないような状態なのである。いつも不機嫌そうな同室者に、どう接したらいいのか、棚橋はよく判らなくなっていた。
「ま、お前の気持ちも解らなくはないけどさ。せっかく可愛いコと同室になれたのに、残念だったな」
「へ?」
 前の席に座っていた室岡の言葉に、棚橋は思わず顔を上げた。上手く意味を理解出来なかったので、その台詞を反芻しようとしたところに、横の生徒からも呟きが零れる。
「そーだよな、多分ルックスは学年一じゃね?」
「も少し愛想良ければ、一緒にいるのも倍楽しいだろーに」
「生活も潤うよな」
 うんうん、と頷く周囲を見て、棚橋は目を瞬かせた。
 確かに、同室の藍沢優也は可愛らしい顔立ちの少年だった。肌が白いせいか、その黒く大きな瞳と紅い唇が際立ち、廊下を歩いているだけでもかなり人目を引く。
 しかし、ここは男子校であり、勿論藍沢も男子である。その彼に対してそういう感想が何の気負いもなく漏らされるとは思わず、棚橋は素直に驚いてしまった。
「…東京ってそういう趣味でも堂々と言えるところなんだ。さすが東京人」
 それにしても、室岡を始め、頷いていた周囲が皆そうだとしたら、このクラスはそういう嗜好の人の割合が随分と多くはないだろうか。
 思わず首を捻った棚橋を見て、室岡は呆れたように呟いた。
「お前、何か勘違いしてない?」
「え?」
 きょとんと目を見開いた棚橋に、室岡は苦笑を零しながら肩を竦めた。
「あのな、深い意味なんかねーって。どうせならムサい男と同室より、可愛い美少年と一緒にいた方が楽しいだろ」
「…そういうもん…?」
 一種の目の保養ということだろうか。
 そういう考え方が既に都会的だと思わなくもなかったが、今度は棚橋も口には出さなかった。
 考えてみると、実際そうかもしれないという気がしてきたからである。



 授業を終えた生徒達は、部活や用事がなければ全員敷地内にある学生寮へ帰ることになるのだが、まっすぐ戻るのは入学したての新入生くらいであるらしく、棚橋が帰った時も寮内は閑散としていた。一年生を対象とした先輩群による部活紹介は先週終わっており、早々に所属先を決めた者達は既に活動に加わっている。まだ行き先を決めかねていた棚橋は、掃除を済ませるとそのまま寮へ戻ったのだが、同室の藍沢はまだ帰っていなかった。
 寮内の部屋は基本的にはどこも同じ造りだ。左右対称にベッドと机が置かれ、手前側の壁にはクローゼット、奥の壁には大きな窓がついている。家具の持ち込みにはさほどうるさくないので、テレビやパソコンは勿論、冷蔵庫まで完備している部屋もあるらしい。スペースに限りがある為同室者と相談の上ということにはなるが、三年間の寮生活を快適に過ごせるよう、各自工夫をしているようだった。
 今のところ棚橋達の部屋には造り付けのもの以外の家具はなく、荷物も少なめだ。だから窓際に落ちていた見慣れぬ青いものに、棚橋はすぐに気が付いた。
 ベッドの上に鞄を放り、目に付いたそれを拾い上げると、何のことはない、それはこの部屋のカーテンタッセルだった。単に落ちたのだろうと解けたカーテンを捲り壁のフックを探ったが、引っ掛けるべき部分が見当たらない。プラスチックで出来たフックは、象の鼻を逆さにしたような細い部分だけが、根元からぱっきり折れていたのだ。
「ありゃ…」
 ぼそりと呟きながら辺りを確認すると、鼻は壁際に力なく転がっている。棚橋はそれを拾い上げて、小さく息を吐いた。
 この寮は特別古い訳ではないが、新しくもない。要するに非常に中途半端な建物で、色々な部分が微妙に老朽化しているようである。にこりともしてくれない同室生といい、寮生活というものに対して不安よりも期待が大きかっただけに、世の中そう上手くはいかないのだということをしみじみ感じる棚橋であった。
 寮監の部屋へ赴いたが、フックの在庫はないとのことで、代わりに接着剤を手渡された。
 地味な作業を終え、換気の為開けていた窓を閉めた頃、ようやく藍沢が帰って来た。
「あ、おかえり」
「…ただいま」
 相変わらず素っ気ない表情で答えると、藍沢は鞄を机の上に置き、そのままクローゼットの方へ向かおうとした。しかしふと窓に視線を向けて、そちらへ歩み寄る。片側のカーテンが留められていないことに気付いたらしく、フックの辺りに手を伸ばしたのを見て、棚橋は声を掛けた。
「あ、それまだちょさない方がいい」
「…え?」
 振り向いた藍沢に、棚橋は自分の机の上に横たわるカーテンタッセルを示し、
「フックが折れちゃって、今くっ付けたばっかなんだ。瞬間接着剤じゃなかったから、念の為」
 もうちょっと乾いてから、と続けた棚橋は、藍沢がきょとんとした顔でこちらを見ていることに気付いて、言葉を止めた。丸く見開かれた黒い瞳に見つめられ、何故か心臓が跳ね上がる。眉を顰めていないだけでこんなに印象が変わるものなのかと、棚橋は脈絡のないことを考えた。
 しかし藍沢はそんな棚橋の動揺には構わずに、淡々とした口調で問い掛けてきた。
「……“チョサナイ”って何?」
「え、あ」
 一瞬何を聞かれたのか判らなかったが、棚橋は慌てて問い返す。
「今俺そう言った?」
「チョサナイ方がいいって」
 藍沢は無表情のまま小さく頷いた。
「悪い、えーと、触らない方がいいってこと」
「ふうん…」
 説明しながら棚橋は顔が熱くなるのを感じた。耳まで赤くなっているのが自分でも判る。
 気を付けるようにはしていたつもりなのだが、どうやら方言で喋っていたらしい。棚橋の故郷の言葉は、イントネーションは割と標準に近いのだが、単語そのものが東京とは全く違うことがあるのだ。
 藍沢の方は東京出身者である。
「ご、ごめん」
「何で謝んの?」
 訝しげに眉を顰める藍沢に、棚橋は目を伏せ、耳元を掻いた。
「いや…藍沢に解らない言葉で話してたって気付かなかったからさ」
 使用する言葉が違うというのは、いかにも地方出身者という感じがして、些か気恥ずかしい。実際田舎者なのだから仕方がないのだが、今まで自然に使っていただけに、どれが方言なのか今ひとつ判らない部分もあり、直すのにも時間が掛かりそうであった。
 と。
「…あっ!」
 いきなり棚橋は声を上げた。勢いに驚いて、藍沢が数歩後退る。
「な、なんだよ?」
「もしかして、俺が使ってる言葉、今までよく解んなかった?それで不機嫌だったとか?」
「は?」
「方言って、知らなければ外国語みたいに聞こえるもんな。ひょっとして、あんまり意味通じてない?」
 棚橋の顔は真剣である。
 藍沢は驚いたように目を見開いていたが、その大きな瞳をゆっくりと細めたかと思うと、ついには小さく吹き出した。
 肩を震わせている藍沢に、今度は棚橋がびっくりして固まる。
「大丈夫、ちゃんと通じてる」
 くすくすと笑いながらそう言った藍沢に、棚橋はどう返していいのか判らず、馬鹿みたいに口を開け閉めさせた。
 初めて見た藍沢の笑顔に、思考が停止してしまったのだ。
 何故かますます赤くなる耳を隠すことも難しく、しかし目を逸らすのも勿体ない気がして、棚橋はちょっとしたパニックに陥っている。
 そんな棚橋に気付いているのかいないのか、ひとまず笑いを納めた藍沢は、自分のベッドに腰を下ろしながら呟いた。
「不機嫌なのは、棚橋のせいじゃないよ。気にしてたんだな。ごめん」
 突然零れた謝罪の言葉に驚いて、棚橋の意識はようやく現実に戻った。
 戸惑いの表情を浮かべる棚橋を見上げながら、藍沢はやはり淡々とした口調で続ける。
「…俺さ、この学校、正直来たくなかったんだよね」
「え…?」
「志望校ことごとく落っこっちゃってさ。集団生活なんて大変そうだし、家だって近いのに、何でわざわざ寮に入らなきゃいけないんだって、そう思ってた」
 棚橋はその言葉に瞳を開いたが、同時にどこか納得もしていた。
 志望校に落ちたと言うが、この学校の偏差値も決して低くはない。更に上を目指していたことに加え、見知らぬ相手と生活を送ることに抵抗があったのなら、なかなか馴染めずにいても当然なのかもしれない。
 藍沢はベッドに座ったまま、曲げた片膝を両腕で抱え込んだ。膝の上に顎を乗せ、棚橋から視線を逸らすように、目を伏せる。
「…でも何か、棚橋見てたら、拗ねてる自分が恥ずかしくなってきた」
 ぼそりと呟いた彼の視線は、斜め下辺りの床上をさ迷っている。唇を微かに尖らせ、頬をほんのりと桃色に染めたその表情は、確かにちょっと、いや正直かなり、可愛かった。
 しかし、級友達は少し間違っていたようだ。
 棚橋は慌てたようにばたばたと手を振り、
「いやあの、気にしてないから!だから藍沢も全然気にしなくていいから!」
 と、何故か必死になっている。
 人の良さそうな同室者が自分以上に赤い顔で力説しているのを見て、藍沢は強張っていた肩の力を緩めるように、ゆっくりと腕を解いた。
 そして少し照れくさそうに微笑み、
「…うん」
 と小さく頷いた。
 最早激しく飛び跳ね始めた心臓に気を取られ、上手く言葉が出て来ない棚橋は、ただ首だけをひたすら上下させている。
 同室者と仲良くなれないという、入学して最初の悩みが解決した途端、すぐに新しい壁に突き当たることになるとは。
 思いもよらない事態に、棚橋は混乱していた。
 ただ微笑まれただけでこんなに動揺してしまうとは、既に目の保養の域を越えている。可愛いコと同室という状況は、級友達が言うように、「生活が潤う」などという単純なものではなかったのだ。
 笑って貰えることによってますますこの先が不安になるなどとは思っていなかったので、賢明な対処法を検討することも出来ず、予想外の動きをする心臓を、いっそのこと新しいものと交換してしまいたい欲求にかられる棚橋であった。


                                            END




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