声を聞くよりも




 


  こうの ちふゆ

 河野千冬は、電話が苦手だった。

 好きではないという以前に、むしろ殆ど使ったことがない―――使う必要がない

ものだったので、生活必需品という意識もあまりない。そもそも話すことが得意で

はない河野にとって、言葉だけで相手とコミュニケートしなくてはならない電話と

いう代物に、良い印象があるはずもなかった。だから勿論、携帯も持っていない。

家にある電話すらろくに使ったことがなかったのである。

 そんな彼が、子機を自室に置きたいと言ったのだから、驚かれるのは当然だ

った。

 河野の姉は目を見開いて、ぽかんとしたまま弟の顔を見つめていた。予想は

していたものの、気恥ずかしさといたたまれなさに「やっぱりいい」と言いたくなっ

てしまう。しかしその台詞を口にする前に、我に返った姉が慌てて頷いてくれた

ので、河野はちょっと頬を赤らめただけで済んだのだった。

 実際問題、自分宛に電話が掛かってくる度に、家族全員がさりげなさを装い

つつも聞き耳を立てていることに、困り果てていたのである。それは勿論、電話

をしている姿が珍しいというだけでなく、電話を掛けてくるような友人が出来たと

いうことを喜んでくれているのだと判っていたのだが、河野にとってはただ緊張

が増すばかりだ。それでも河野家の電話は居間に、そして子機は姉の部屋に

設置されていた為、必然的に彼は居間で話をするしかなかったのだが、最近姉

は自分の携帯しか使っていないようだったので、思いきってお伺いを立ててみた

のである。

 けれど自分の部屋で誰にも邪魔されることなく話せるようになったとは言え、

やはり河野は電話をするという行為になかなか慣れることが出来なかった。
                  
 あそうよしたか
掛けてくるのは専ら恋人である麻生義隆だったので、どんな時でも相手の声が

聞けるのは嬉しいし、距離があっても時間を共有出来ることに、幸せを感じたり

もする。

 しかし、電話というものは基本的に、耳元に当てて使うものだ。

 河野にとって、それが苦手な要因のひとつであった。

「……千冬?起きてる?」

「あ、う、うん」

 受話器の向こうからそう問われて、河野は慌てて頷いた。電話だと普段にも

増して口数が少なくなってしまう河野だったが、相槌まで途切れてしまったこと

に、さすがの麻生も不安を感じたらしい。

「もしかして眠い?」

 その問いに首を振りかけて、声に出さなければ通じないことを思い出す。時刻

は夜十時を回ったところだったが、眠気を感じて黙り込んでしまった訳ではなか

った。

 ここのところ麻生は放課後バイトに忙しく、あまり一緒に過ごすことが出来なか

ったので、電話をくれたこと自体はとても嬉しかったのである。

「眠くない。…そ、じゃなくて」

 何だかドキドキしてしまう。

 河野は壁に寄り掛かっていた体を起こして、自分の膝を抱えるように座り直し

た。

「まだ、緊張する?」

「…ん」

 河野が電話を苦手としていることを、麻生も勿論知っている。けれど嫌がると

いうよりは困っている様子だったので、逆に慣れさせればいいんじゃないのか、

などとつい自分に都合良く考えてしまう麻生であった。最近なかなか二人きりに

なれなかったので、せめてその声を独り占めしたくて――要は我慢が出来ない

のである。

 他愛の無い台詞でも、単なる相槌でも、河野の声が聞ければそれで良かった。

 しかし時として、彼の言葉は麻生の予想の範疇を軽く飛び越える。

「……電話って、耳に直接当てるから」

「ん?」

 ポツリと呟かれた河野の声に、麻生が首を傾げる。

 躊躇うような間が空いた後、河野は小声で続けた。

「…何だか、耳元で話されてるみたいで……」

 だから、どうしても落ち着かない。

 麻生の声が、そしてその唇が、とても近くにあるようで。ともすれば、すぐ傍で

囁かれているようで。

 余計にドキドキしてしまうのだ。

 しかしまさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、今や麻生の

心臓も負けず劣らずの状態であった。可愛らしいと思う以上に、何だか煽られ

ているような気分になってしまう。見えない相手につられたように僅かに頬を染

め、いや、えーと、などと口の中でもごもご呟いてから、麻生はそっと相手の

名を呼んだ。

「……千冬」

 緊張が移ってしまったのか、変に掠れた声が出てしまう。

 しかしそれが逆に妙に艶めいた囁きに聞こえてしまい、河野の方は更に困っ

てしまった。普通の声ですら大変だというのに、これはもう許容範囲を超えてい

る。

 河野は熱さを増した心臓を隠すかのように、膝を抱えていた腕にぎゅっと力を

込めた。

「…それ、わざとやってる?」

 一瞬何を言われたのか判らなかった麻生だが、微かに拗ねたような声に、思

わず笑みを漏らした。

 そういうつもりではなかったのだが、普段と違う声の響きに、余計に困惑した

らしい。

 初々しい反応を返されて、麻生の中につい悪戯心が芽生えてしまう。

「いや、そーじゃねーんだけど」

 笑いながら答えた後、わざとトーンを落として、今度は意図的に甘い声で囁い

てみる。

「千冬の可愛い声聞いてたら、俺も興奮してきちゃってさ」

 耳元に落ちる言葉と響きに、河野は頬を染めた。

「…バカ」

 恥ずかしそうに眉を寄せる顔が目に浮かぶようで、麻生は小さく笑った。笑

顔のまま、優しい声で問い掛ける。

「千冬も、今、ドキドキしてる?」

「うん…」

 河野は素直に頷いた。そして独り言のように続ける。

「…どうしよう…」

 ますます困って躰を縮こませた相手に、

「しばらく二人きりにもなれなかったもんな。せめてテレホンエッチでもしよっか?」

 努めて軽い口調で言った麻生だが、実は半分本気だったりもした。しかしさすが

にこちらに頷くわけがないとは思っていたので、河野が小声で

「…やだ」

 と言った時も、さほど落胆はしなかったのだが。

 続けて呟かれた言葉に、思わず動きが止まってしまった。

「……ちゃんとするならいいけど、声だけなんて、やだ……」

「…………」

 妙な間の後、ばたっと何かが倒れる音が聞こえて、河野は俯いていた顔を

上げた。

「……?義隆?」

 受話器の向こうに問い掛けるが、何やら雑音が聞こえるだけである。首を傾

げた河野だったが、それどころではなかった麻生は、思わずベッドに突っ伏して

しまった体をようやく起こして、大きく溜息をついた。

 天然って最強だ…。

「ダメだ、マジ我慢出来ねぇ」

 ぐちゃぐちゃと頭を掻き回しながら呟くと、麻生は携帯を握り直した。

「千冬、明日帰り、家寄ってけ」

 いきなり言われて、河野は目を瞬かせた。

「え…バイトは?」

「代わってもらう。とにかく、直接抱き締めないと気が済まねー」

 勢い込む相手に、河野は受話器を握ったまま、小さく笑い出した。

「笑ってっけどな、お前のせいだぞ」

 憮然とした声で返される。

 意味はよく判らなかったが、二人きりで過ごせるのは何より嬉しい。河野は、

「じゃあ、楽しみにしてる」と尚相手を惑わすような台詞を吐いて、麻生を更に唸

らせていた。

 おやすみの挨拶をして、通話を終える。電源を切った受話器を充電器に戻す

と、カチリと意外に大きな音がした。

 その音が大きいのではなく、自分の周りが急に静かになったのだと気が付い

て、河野はそっと耳に指先を当てた。かさかさと空気が掠れた音がする。同時

に、端の掠れた麻生の声まで蘇ってしまい、河野は慌てて指を離した。

 治まったと思った頬の熱が、再び心臓の辺りから上がってくる。

 これだから、電話は苦手なのだ。

 終わった後、何故か会いたい気持ちが増してしまう。声を聞くだけで満足出来

ない自分は、随分と欲張りで我侭な人間なのかもしれないと思う。

「……あ」

 もしかして麻生が時間を作ってくれると言ったのも、そんな自分を察してくれ

たからなのだろうか。そう言えば「お前のせいだ」と言っていた気もする。

 抱き締めたいと言われたのは嬉しかったが、学校でもとりあえず顔は見れるの

だから、それ以上は我慢するべきなのかもしれない。

 明日会ったら謝ろう、と些か見当違いなことを考えながら、河野は赤く染まった

頬を隠すように、部屋の電気を消した。






END



 

 

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